三田評論ONLINE

【福澤諭吉をめぐる人々】
武藤山治

2019/03/27

武藤山治(國民會館提供)
  • 齋藤 秀彦(さいとう ひでひこ)

    慶應義塾横浜初等部教諭

政党政治の腐敗と堕落を見るに忍びず、実業家の立場から、「政治一新」を掲げて政界に乗り出した武藤山治(むとうさんじ)であったが、現実の政治は国民を顧みず政権奪取に明け暮れ、武藤の理想とする民主主義とは大きくかけ離れたものであった。武藤は、自らの議員活動が政治改革に無力であることを感じ、昭和7(1932)年1月、政界からの引退を決意した。すでに64歳となっていた武藤は、「静かに家庭にあって余生を送りたい」と考えていた。

上京した武藤のもとに、慶應義塾の先輩たち、名取和作、門野幾之進、福澤桃介がやってきて、経営が傾き再建もおぼつかなくなった時事新報の件を切り出した。「福澤先生の遺業をなくしてしまっては、先生に相済まぬ。ぜひ武藤君が引き受けてくれないか」。武藤は経営者として当代一流であるのみならず、新聞業と接点を持った経歴もあり、執筆は得意とするところである。そして何よりも武藤の正義を愛し、悪を憎む心。時事新報を立て直せるとしたら武藤しかない、これが衆目の一致するところであった。敬慕する福澤先生の名前を出されては、武藤も無下に断ることができなかった。

福澤諭吉との出会い

武藤が生まれたのは、慶應3(1867)年3月1日のことである。父は佐久間国三郎、母はたねという。佐久間家は美濃国の蛇池村(今の岐阜県海津市)に代々豪農、庄屋として聞こえた家であった。

熱心な読書家だった父国三郎が当時評判となっていた福澤諭吉の『西洋事情』を手に取ることは、自然の成り行きであった。父から「福澤先生の塾には、演説館があるそうだ。ここで演説の稽古もできる」と聞かされ、武藤は東京に出て、福澤の塾に入学したいと父に願い出ることになる。

上京した武藤は、慶應義塾の中で、年少者を対象にした和田塾(後の幼稚舎)に入学した。和田塾でも演説会が催されていて、福澤もその場に出席し、「身体を健全にして立派な体格を練り、活動に適するようにしなさい」、「言葉や態度は、親切丁寧にしなさい」などと生徒たちに話して聞かせていた。福澤から直接聞く話は、武藤に感動を与え、心に深い印象を残したという。

武藤は、間もなく和田塾から本塾に移り、童子寮と呼ばれる寄宿舎での生活が始まった。武藤は、「福澤先生の一大人格に自ずと触れ、その感化を受けて世の中に出た」と言い、後の学生が文字の上で福澤に触れるのとは、大きく違うことを指摘している。

明治17年、塾を卒業した武藤は、サンフランシスコに渡り、スクールボーイといって学校通いしながら仕事をする苦学生の道を歩んだ。日雇いのホテルの窓ガラス拭きや、私人宅の大掃除などである。武藤がアメリカの家庭で働いて感じたことは、召使いに対する態度が優しく、上品で言葉遣いも丁寧なことである。自ら使われる立場になったこの経験が、武藤が会社経営に当たったときの従業員に対する態度につながっていった。続いて武藤は、パシフィック・ユニバーシティで寄宿生の食事の給仕をしながら学校に通学した。

3年ぶりに帰国した武藤は、思いついて新聞広告取次業と雑誌製作業を始めた。銀座に一軒家を借りての日本初の広告取次業であった。雑誌は古い新聞や雑誌の記事を切り抜き、それに2〜3の原稿を加えて、「博聞雑誌」の名で発行したものだった。いくつかの職を経た後、武藤は福澤の甥で三井の改革の指揮を執る中上川彦次郎と面会し、能力を認められて、明治26(1893)年1月、三井銀行に入社する。半年後には神戸支店に転勤となり、さらに翌年4月、鐘ヶ淵紡績(鐘紡)勤務を命じられる。当時、日本の紡績業はまだ発育期に当たり、鐘紡は不況に直面して、解散の危機に瀕していたところを三井銀行の傘下に入り、中上川に経営再建が託されていたのであった。

カテゴリ
三田評論のコーナー

本誌を購入する

関連コンテンツ

最新記事