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【福澤諭吉をめぐる人々】
武藤山治

2019/03/27

鐘紡時代

鐘紡は、そのころ東京の隅田に第1工場を持っていたが、さらに清国(中国)向けの輸出を目論み、神戸市に分工場が建設されることになった。武藤は、兵庫工場の支配人として、工場建設から携わった。鐘紡で中上川社長のもと専務取締役を任されていた朝吹英二は、たびたび関西を訪れ、武藤を連れて、関西の紡績会社に挨拶に回った。朝吹は、「兵庫工場は、なるべく地味にせねばならない。事務所は粗末にするように」と、しきりに武藤を諭した。武藤は、福澤門下の兄弟子ともいえる中上川と朝吹から経営のイロハや従業員を大切にする姿勢を学んでいった。

武藤は、初めの4、5年は365日、1日も休まず働いたという。朝は8時から、夜は9時過ぎまで、尻が破れて雑巾のように縫ってある洋服に、エンジニアのかぶる鳥打帽で、機関室でも、どこでも入っていく。そのため帽子は油だらけ。その姿で、事務所と工場を駆け回っていた。支配人の武藤が誰よりも働くから、部下たちも日曜、祭日なしに働いたという。 

武藤は、兵庫工場の初期に経験した試行錯誤や様々な失敗から、修繕費は惜しまず機械の保全と改良を完全にすること、従業員を優遇し教育を施して、自然と進んで働くようにすることが、工場経営の極意であると悟った。武藤は、「職工優遇こそ最善の投資なり」として、武藤の経営スタイルとなった「温情主義」経営を実践した。これが後に、武藤が他社に先駆けて共済組合の制度をつくり、職工学校や療養所を設置するなど、職工の幸福増進に努める施策を打ち出す土壌となったのである。さらに従業員向けに雑誌『鐘紡の汽笛』、女工向きには『女子の友』を発行し、従業員に会社のことを広く知らせた。武藤は、こうした鐘紡の経営法は家族制度に基づくもので、どこまでも従業員に対して一家族としての親切を旨としていると総括している。

鐘ヶ淵紡績株式会社の支配人、社長へと進んだ武藤は、紡績の研究を怠ることなく、品質の改良に妥協をしなかった。こうして、日本有数の売上高・総資産額を誇る大企業に成長した鐘紡の「温情主義」「家族主義」と呼ばれる従業員を優遇する経営スタイルは、後進の日本企業の手本となっていった。

明治から昭和初期まで日本の輸出を牽引した紡績業の背景には、貧しい農村出身の女子労働者を極端な低賃金で使って成し得たという事実もある。その中でも武藤は、労働者に厳格に勤労を求めつつ、一部の紡績工場に見られた女工を踏んだり蹴ったりするような非人間的な行為は、到底許さなかった。武藤の行為を偽善的と批判する評論家もあったが、武藤自身は大真面目に温情主義を掲げていたのである。

当時の職工係が、ありし日の武藤を次のように述懐している。武藤が工場に向かって車に乗っていると、鼻緒の切れた下駄を手に裸足で歩く女の子を目にした。武藤は「ちょっと待て」と車を停め、「お前、紡績へ行くのやな。これに乗って行け」と言って、運転手に女の子を紡績へ連れて行けと言い、自身は車から降りて、弁当を小脇に抱え歩いて出社したという。武藤のこうした行為は、生涯を通じて枚挙に遑(いとま)がないほどであったという。

大正8(1919)年、ワシントンDCで行われた第1回国際労働会議に、武藤は雇用者側代表として参加する。武藤は、この席で鐘紡の職工優遇制度を紹介した英文冊子を配布した。それは、後進国とみなされていた日本の国際的地位の向上にも貢献した。

政治家そして新聞人として

武藤は、大正12年、政治教育と政界革新を目的に実業同志会(後に国民同志会)を創立した。翌年、衆議院議員選挙に立候補、当選した武藤は、「わが国の政治は、今や腐敗堕落の極みに達し、現状のままに推移する時は、(中略)国家の衰亡をきたすべき運命にある。この際国民が奮起して、この腐敗を廓清(かくせい)し、純潔なる政治に引き戻すことが、何よりも急務である」と所信を述べている。武藤は、数年間、鐘紡社長のまま議員活動を続けたが、昭和5(1930)年にその職を辞任した。

話は冒頭に戻る。昭和7(1932)年4月、時事新報の再建を引き受けた武藤は、同社の相談役となり、事実上の社長として経営を軌道に乗せることに心血を注いだ。同時に「思ふまゝ」や「月曜論壇」を自ら執筆した。新聞人として、国民に向けた政治教育にも力を注いだのである。武藤は、自分の発案で事を起こす時は決まって「その費用は小生が負担する」と言う。社員は、これを「小生負担」と呼んだ。こうして時事新報は、毎年計上していた赤字を激減させ、武藤が「昭和9年、すなわち福澤先生御生誕100年の年には、赤字を克服し、先生の墓前にご報告する」と言えるまでになっていた。

武藤は、「政党・財界の一部の間に、いまわしい結託関係があることを、良き民主政治確立の上から、けがらわしいものと考え、その傾向を封ずる」(有竹修二)ために、「番町会を暴く」の連載を開始した。連載に書かれた記事は、やがて帝人事件として大物政治家、官僚、財界人を巻き込んだ裁判に発展するが、それは武藤の死後のことである。

「番町会を暴く」はセンセーションを巻き起こしたが、同時に、武藤の身辺にも危険が囁かれるようになった。

昭和9年3月9日朝、武藤はいつものように別邸を出て、時事新報社に出社すべく、北鎌倉の駅に向かって歩いていたところで、突然姿を現した男の凶弾によって倒れた。犯人は、その場で自殺。病院に搬送された武藤は、翌晩、家族に見守られながら、永遠の眠りについた。鎌倉警察署は番町会の関係者を喚問し、事件との関係を洗ったが早々に打ち切り、個人的な恨みによる犯行と結論付けて、捜査を終了した。

3月16日、大阪の國民會館で本葬が、東京でも時事新報社で告別式が営まれた。國民會館は、福澤の演説館を見習って、武藤が私財を投じ、昭和8年6月に政治教育の殿堂として開館した建物である。時事新報を引き受けてから東京を拠点とした武藤にとって、本葬の日は開館式典以来2度目の無言の来館となった。國民會館は、武藤死後も演説会、講演会を続けて今日通算1000回を超えるまでとなり、武藤の孫の治太氏が現会長を務めている。

武藤の去った鐘紡では3カ月後に労働争議が起き、労働組合が結成された。武藤を失った時事新報は経営が悪化し昭和11年に廃刊となった。経営者武藤の姿を追うと、自身と組織が一体化し、「福澤精神を顕現した人」と呼ばれる武藤の個性が、経営の欠くことのできない一要素を成していたと思えてならない。

綿業会館の直筆の書と銅像(左)

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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