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【福澤諭吉をめぐる人々】
福澤一太郎

2018/04/04

  • 小山 太輝(こやま たいき)

    慶應義塾幼稚舎教諭

福澤諭吉の長男、一太郎。活動的な次男、捨次郎と比較すると、一太郎は静思的。小泉信三は、「陽性で才気ある」次男に対し、「不活発で寧ろ不器用な」長男と表現している。諭吉の周りでは、偉大な父と比較し、彼らを「不肖の子」と見る向きもあったという。しかし、 諭吉はこの一太郎、そして子どもたちに対して並々ならぬ愛情を注いだ。小泉の言葉を借りれば、「福沢は賢き父であり、また痴(おろ)かなる父」であった(福澤諭吉『愛児への手紙』解題)。

今回は、そんな諭吉の一太郎への愛、そしてそれを受けて成長した一太郎の姿をお伝えしたい。

諭吉の教育

文久3年、諭吉28歳の時、妻お錦との間に一太郎が生まれる。一太郎が、這いはいを始めたのは17か月。立って歩くのに25か月かかった。言葉を発し始めたのは3年6か月であり、記録によれば2歳下の当時1歳数か月の次男捨次郎とほぼ同じタイミングであったと推察できる。子どもの成長には個人差があり、千差万別ではあるが、あえて一太郎の成長の遅さに留意しておきたい。また、諭吉は一太郎の性格を、「涕弱(なみだもろ)」い性質であり、その「煩敏さ」は、他の5、6歳の子と異なっていたと自ら記した育児記録(『福澤諭吉子女伝』)で語っている。

諭吉の教育方針は、厳刻(厳格)ならず、常に信愛を主とし、どんな事情があっても手を出すことはなく、唯言葉にて叱るか、稀に暗室に入れる罰があったくらいであったという。また、妻や子どもたちに対しても「さん」付けをして丁寧な言葉で接していた。同時期の父親像から考えると非常に先進的でリベラルな父親像であったことがわかる。諭吉は、子どもたちの「朋友」であることを望んでいた。

勉強は自らが教え、教科書まで執筆している。中には、世界の事情を七五調で説明する『世界国尽』など広く出版して世に大きな影響を及ぼしたものもある。また、特徴的なものとして、現在でも義塾初等教育の指針とされることの多い『ひゞのをしへ』を取り上げたい。これは、一太郎8歳の時に兄弟2人に書き与えたものである。「一、うそをつくべからず」など冒頭7つのおさだめからはじまり、後に、日付と 共に日々諭吉から子どもに記される。あえて日ごとの理由は、子どもたちに面白く聞かせる工夫であった。

内容は、普遍的なものを含みながらも、その時に彼らに必要なことが書かれていたようである。例えば、1日目は本を読んでもすぐ内容を忘れてしまう一太郎に対し内容を覚える重要性を説き、2日目には、虫に対して慈悲の心が深くなかったことへの注意が記されている。また、3日目には、「インヂペンデント」について書かれており、早い段階で独立の心を身に着けることを願っていたことがわかる。

その後は、幼稚舎に通ったり、英語を習ったりしながら、一時期は、捨次郎と共に帝国大学の予備門に入学した。しかし、入寮すると胃が悪くなり、自宅療養で治っても、戻ると再び胃を悪くすることを繰り返し、結局は、一太郎も捨次郎も断念、慶應義塾に学ぶことになる。環境に適応することが苦手で、不安やストレスが体に出てしまうタイプであったことがみてとれる。

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