【福澤諭吉をめぐる人々】
福澤桃介(上)
2025/02/26

「富士山と英雄は、遠くから見るがよい。離れて望んで八面玲瓏(れいろう)の富士も、傍に行くとアバタ交じりで、穢(きたな)くて、とても見られたものでない。英雄もその通りで、私が福澤(諭吉)の傍にいたせいか、私には先生がそんなに偉いとは思えない。ある点については、先生より私の方が、よほど偉いと思うことがある。」
「私は尾崎(行雄)、大石(正己)のごとく、それほど先生を偉い大人物と思わぬが、先生に対して感心する点は、喋ることと聴くことの両方が上手であったことだ。(中略)もちろんほかには欠点もある。(市川)団十郎に較べて偉いかどうかは判らない。がとにかく、尾崎も大石もそういうし、世間の具現者が見ると、福澤先生が明治年間に生んだ一番偉かった人である。」
これは、昭和4(1929)年に執筆された『財界人物我観』という当時の財界の大物たちを評した本の「序論」の抜粋である。門下にあって諭吉を「そんなに偉いとは思えない」と言い切り、自分の方が「よほど偉いと思うことがある」と言ってのける男こそ、福澤桃介である。
ライオンが描かれた白シャツの青年
桃介は、慶應4(1868)年、武蔵国荒子村に岩崎紀一、サダの次男として生まれた。家は貧しく、本家からわずかばかりの田地をもらって生活していたが、やがて紀一は川越に出て提灯屋を始めた。桃介は、幼少より勉強家で「東京へ出て勉強して大人物にならんと心掛けて」おり、明治16(1883)年の夏、縁故を頼って慶應義塾に入学した。桃介が寄宿舎に入ると、暑い時分、塾生は皆素っ裸で書物を読んでいる。桃介は、その様子に面食らい、東京の学生は乱暴だと思ったが、実際、腕力のある塾生からは時々鉄拳を食らっていたという。
塾生時代の桃介は、諭吉に叱られることもあった。諭吉が外を歩いていると寄宿舎の2階から小便をする者がいる。「誰だ」と問うと、相手が諭吉とは知らぬ桃介は大声で「桃介だ」と言い返した。諭吉は桃介を退校させるとまで言い出したが、この時は生涯の親友となる田端重晟(しげあき)(のち北海道炭鉱鉄道で桃介と共に働き、諭吉に招かれて北里柴三郎の補佐役となる)たちが謝って許された。また、賄い飯が不味いといって「賄い方征伐」と称し、茶碗を壊し飯櫃を放り出して暴れたところ、主犯15人ばかりが諭吉の邸に呼び出された。謝罪をすれば許してやると言われたが、桃介は、「賄い主が約束通り美味いものを食わせないのが悪い」と、一人意地を張り通して、とうとう謝罪しなかった。
このような一書生が、ある日、諭吉の養子になった。その経緯について桃介は、「福澤先生が私を将来有望の青年と思って養子にしたと云う風に世間では噂して居る様だが決してそうではない、私を養子に見立てたのは先生の令夫人即ち今の私のお母さん錦(きん)である」と語っている。その場は、慶應義塾の運動会である。当時の運動会は、関係者のみならず、年頃の娘を持つ親が将来の婿探しにと押しかけるような賑やかなものであった。体が弱い桃介は運動競技には負けが多かったが、無地では勢いがないからと友人がライオンの顔を大きく描いてくれた白シャツを着て軽快に動く美青年は塾生の中でもひときわ目立った。その姿を一目見て気に入ったのが錦と長女の里(さと)であった。いや、2人は隣にいた次女房(ふさ)の気持ちを察し、諭吉を動かしたのかもしれない。
諭吉は、房と桃介の縁談を進めるにあたり、その取り決めを「大意」と称する文書にした。はじめに「岩崎桃介を福澤諭吉の養子として貰受(もらいうくる)候事」とあり、次に「養子は諭吉相続之養子にあらず、諭吉の次女お房へ配偶して別家する事」と続く。諭吉は、その前年に時事新報の社説に掲載した「日本婦人論」において、養子の習慣を「人間世界稀有の習慣にして識者の常に怪しむ所」と批判したばかりである。諭吉には珍しく、言行不一致にはならないか。諭吉自身、自らをも納得させるために2つ目の項で世間一般の相続のための養子ではなく、別家させることを明記したのではないか。それにしても、諭吉の娘5人の婿のうち、養子縁組のうえ結婚したのは桃介だけであり、不可解である。諭吉が岩崎家の家格を気にしたのか、桃介の将来に配慮し福澤を名乗らせたのか。このことについて桃介は、「おフサはボンヤリとしたお人好しであるから嫁に行っても即ち他家へ縁付いても務まるまい可愛想だから養子でも貰ったらよかろうとお母さんは考えたのであろう」と、のちに書いている。
事の真相は不明であるが、結果としてこの養子縁組は、おそらく桃介が当時想像していた以上に、桃介の人生の表裏、つまり経歴面と精神面に多大な影響を及ぼした。哲学者、評論家の三宅雪嶺は、この縁組について、「養子として大きな利益を得なんだにしても少しの利益は得て居るであろう。さすれば福澤の養子と成ったのは、何か因縁づくであるとし何とか福澤流の事をするも宜かろう」とその利益を説き、一方で、「独立独行という点よりせば余計の事福澤の家に養子になったとて何程の事がある」とその損失を指摘している。ともあれ、この時点で桃介は、房との結婚と、諭吉との養子縁組を承諾した。
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齋藤 秀彦(さいとう ひでひこ)
慶應義塾横浜初等部主事