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【福澤諭吉をめぐる人々】
田端重晟

2021/04/28

写真提供:学校法人北里研究所 北里柴三郎記念室
  • 山内 慶太(やまうち けいた)

    慶應義塾大学看護医療学部教授

北里柴三郎は6年余のドイツ留学において多大な研究成果をあげ、明治25(1892)年5月に帰国した。しかし、日本の学界は冷淡で研究できる環境に恵まれないでいた。そこで福澤諭吉が支援して同年11月に伝染病研究所が創られた。また、翌年には福澤は北里と相談して、結核患者のための病院「養生園」も開設した。研究所は、国の支援も受けて拡張を重ね内務省の所管となっていたが、大正3(1914)年、突如文部省に移管された。

この時、東京帝国大学に附属されては、衛生行政との緊密な連携はとれなくなるし、学問の独立もなくなると、北里をはじめ研究所の人達が総辞職し、独立して研究所を創る。これが北里研究所である。

北里は、伝染病研究所総辞職の翌年の1月10日、慶應義塾の福澤先生記念会で「学問の神聖と独立」と題して演説をした。その中で、福澤の忠告を回想している。

「今日は政府が君に信頼しておっても、又何時気変りをして、どんな事になるかも知れぬから、決して油断せずに、足許の明るい中に溜められるだけ溜めて御置きなさいと、こういうことを仰いました。(略)学者が学問のことを研究するのには、一心にその事をやらなければならぬ、然るに一方に出来るだけの蓄財をせよなどというのは無理の注文である。であるから、君はその方には直接に関係せずとも宜い、君は専心君の研究を進めるが宜い、その代りに金銭のことは自分の眼鏡で、この人間ならば間違がない泥棒も何もしない、君の手足となって十分にやり得るだけの人間を君に貸せるから、其方の事はその者に委せたら宜かろうと言って、私に一人の人を御貸し下さいました。それは則ち私が今日も一緒にやって居ります田端重晟(ばた しげあき)氏であります。」

そして、「田端氏の非常なる努力により多少の貯えが出来」ていたので、自分の主義を貫徹して独立出来たと述べて、「今回の私の行動は、(略)私が予(かね)て福澤先生から受けておりました所の精神的教育、即ち独立不羈と云うことを実行したものと、自ら誇っている」と述べた。

このように北里研究所の創立を可能にした田端重晟とはどのような人物であろうか。

塾生時代から福澤邸に出入り

田端は、福澤の意を受けて、生涯、地道に北里を支えたので、田端を語る資料は少ない。しかし、毎日、克明に記した日記が残っている。明治21年から昭和17年までのもので、福澤や北里を知る上で史料的価値は極めて高く、活字にされるべきものであるが、残念ながら未だなされていない。しかし、以前にこの日記を分析した故正田庄次郎氏の論文があるのでこれを主に参照することにする。

田端は、元治元(1864)年4月、埼玉県比企郡小川町に生まれ、明治13(1880)年、上京して慶應義塾に入った。そして21年7月、義塾の別科を卒業した。本連載で取り上げた池田成彬、木下立安も一緒である。

田端は、学生時代から福澤の自邸によく出入りしており、卒業の少し前の5月には、文部省の「倫理書」に対する福澤の意見書を福澤に呼ばれて清書している。また、同年8月には鎌倉に静養する福澤を訪ねており、その時の様子を福澤は米国滞在中の福澤桃介に書簡で知らせている。

「先方滞在中は、石井甲子五郎並に田端氏も参り、毎日子供等と遊戯、面白き事に有之候(これありそうろう)」

福澤の次女房(ふさ)と結婚して福澤姓になる桃介は田端と同郷で互いに親しかった。

丁度この頃は就職難の時期で、田端は福澤にも相談していた。そのやりとりも日記にある。

「先生の御存知の方にて外国と取引する処ありましたらと云うや、忽ち余を見る。余も又その顔を見て、どうか御心当りがありましたらと云うたら、先生忽ち頭を下げ、そりゃそりゃうーん、話しもしましょうし聞いても見ましょうと易々に云われたり」

当時の義塾は、同年の卒業が正科と別科を合わせても39人であるから、未だ規模は小さく、福澤と塾生の間にこのような親密なやりとりが未だあったのである。

田端は結局、物価を報ずる商況社に入り、その後、北海道炭礦鉄道株式会社に移っていた。

福澤に請われる

明治26年、「養生園」が白金に作られる。福澤が支援して発足した研究所に、結核の治療を受けたいと訪れる患者が増加して来たことから、北里の為に作った病院である。田端は、既に紹介した北里の回想が示すように、福澤に呼び出される形で上京する。

同年5月16日に北里宛の書簡で福澤はこう伝えている。

「同人(田端)は是まで京橋に寓居の処、それにては万事に不都合ゆえ、今日より暫時弊宅の玄関住居と致し、毎日芝と広尾との間を奔走注意する積りに付、如何なる細件にても御相談相成度存候(あいなりたくぞんじそうろう)」

なお、この書簡には養生園の呼称を「土筆ヶ岡(つくしがおか)養生園」とすることも記されている。

この養生園は、福澤が田端に、建築費の支払い、建物の図面、材木の安価な入手など、細かく指示を出して建設され、発足した。以来、田端は養生園の会計主幹として、北里研究所創立以降は、合わせて同研究所の事務部長として終生尽力した。

『北里研究所五十年誌』は田端の性格を「実に恪勤(かっきん)、精励、質素であった。服装はいつも和服で何年もの間、代った服を見たことがない。但し新年と慶弔時にはフロックコートを着用され、その暮し向きは実に質素極るものであった」と記している。また職員の言として「田端君は辛らつな皮肉を混じえて叱言をあびせるのでこわい親父と怖れられていましたが、情に厚く下々の面倒をよく見て下さるという人でしたから、大家族的な雰囲気が出来て永年勤続者が多かった。また、諸事几帳面で義理堅く徳を積むといった人であった」と記している。福澤はそのような性格の田端が北里の事業には不可欠であることを見込んだのであろう。

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