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【福澤諭吉をめぐる人々】
田端重晟

2021/04/28

福澤と北里を鎖ぐ

田端の日記を見ると、養生園の運営に関して、実に細かく福澤に報告し、また判断を仰いでいる。毎年の損益表の報告だけでなく、入院料の値上げ、医員等の手当の増額、役員賞与金の見直し等、幅広く相談している。

また、建物についても、板塀・石垣等の「園の外回り装飾の事」まで相談している。土地は元々福澤の所有であるが、田端と福澤は密接に相談しながら隣接地を順次購入して敷地を拡張している。

更に、将来構想についても同様で、「レプラ(ハンセン病のこと)患者の病院」、「ジフテリア病院」「血清製造所」等、北里との間で出た案を田端は逐次福澤とも相談をしている。

このような形を正田は、「福澤の合理主義が、はからずも、診療活動と経営活動とを分離し、後者を適任者に託しておこなう、近代的医療経営の萌芽形態を生み出した」と指摘しているが、その経営活動を田端が担っていたと言えるであろう。

しかしながら、田端は、この養生園の経営から離れたところでも、北里と福澤の間を常につなぐ存在でもあった、その例を示そう。

北里は、福澤の生前はずっと芝公園にある福澤からの借家に住んでいた。ところが、30年に福澤から子供達の家を作るために明け渡しを求められたことがある。その時も引き続き借家に住めるように北里に代わって田端が懇願している。日記には「過日北里より依頼の同人地所追立の事に付、是非共従来通り縁を連結して願い度。(略)要するに、先生と縁を鎖ぐ也を希望する旨話す」とある。翌日はその様子を北里に伝えたが、「博士安心せり」であったという。

つまり、北里は福澤に対して強い報恩の念を持っていたが、同時に、常に福澤とのつながりの太いことを確認して安心するようなところがあったようである。そこにも田端が間に入って尽力していたのであるが、田端の存在自体も北里にとっては「先生と縁を鎖ぐ」存在でもあったように思われる。

福澤の遺志を護る

福澤が1回目の脳卒中に倒れたのは明治31年9月のことで、日記からは、田端が、治療に当たる医師達の間を連絡して回っていた様子、自らも一日おきで徹夜の看病に当たっていたこと等がわかる。その時は奇跡的に回復したものの、34年1月末に2度目の脳卒中で倒れ、2月3日に歿した。当日の日記には、「中の間に、中上川、朝吹、小幡等集り、葬儀の次第種々協議あり」と慌ただしい様子も記されているが、田端は「新聞広告原稿等余之を認め、又墓標等の揮毫の事は、余が銘旗を認め」ることになったとある。

福澤は、1回目の脳卒中の前年田端のところに寄って遺言のように託していた。30年2月22日の日記に以下の記述がある。

「十時頃福翁来る。(略)それより研究室を一覧を乞い、且余に養生園の潰るる迄坐して世話し呉れ云々の談あり。十一時半過去る。」

実際に、田端は福澤の没後もそれまでと同様に、養生園の運営に尽力した。

例えば、養生園の敷地は全て福澤からの借地であったが、没後は、相続された遺族との間で、当初の趣旨が継続するように腐心した様子も伺われる。

ちなみに、福澤は、土地の証書に、次のように記していた。

「この証書は普通の証書をそのまま用いたるものなれども、実は北里氏へ地面を貸したるは学問上の好意に出たることなれば、時代は随時の商況により昇ることあるべきも、無理に退去を促す等不法の請求は断じて行うべからず。子孫慎んでこの宗を忘るゝ勿(なか)れ」

伝染病研究所が文部省に移管されたのは、福澤が歿して13年後のことである。北里は「人間の独立自尊はここにある」と敢然と、養生園の敷地に私立の北里研究所を創立した。二十余万円の建設費をはじめとする設立費用のうち三十余万円は、養生園の経営で蓄積されていた収益で対応することが出来た。義塾の医学部も、北里をはじめとする北里研究所の協力があって可能になったのであるから、設立資金の蓄えがなかったらと考えると田端の功績の大きさがわかるであろう。

まさに、田端は、養生園設立に当たって福澤から託された使命を福澤の死後も地道に守り続けたのであった。そして、北里が昭和6年に歿して翌年、青山墓地に建立された墓碑も田端の筆によるものであった。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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