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【福澤諭吉をめぐる人々】
福澤捨次郎

2022/05/27

福澤捨次郎(後列左から3人目) その前が横綱常陸山(福澤研究センター蔵)
  • 小山 太輝(こやま たいき)

    慶應義塾幼稚舎教諭

福澤諭吉が創刊した時事新報は、独立不羈(ふき)を掲げる不偏不党の新聞として国内において堂々たる地位にあった。諭吉の二男捨次郎(すてじろう)は、明治29(1896)年から大正15年まで、その時事新報の社長を務めた。「福沢捨次郎は確かに我が新聞界の先駆者であった。また極めて才能の優れた社会部長でもあり、企画部長でもあった。彼の社長時代に、時事新報が栄えたのも、決して偶然ではなかったのである」。「彼が明治の後半期から大正の年代にかけて、幾多の創意を以て我新聞界を常にリードした一事については、私はこれを無条件に承認するものである」。後に同社の社長も務めた板倉卓造は、捨次郎をこのように評価している(『五十人の新聞人』)。捨次郎は、アメリカ留学で学んだ知見と父譲りの自我作古の精神で当時の新聞界に様々な新例を作った人物である。

福澤家の幼少期の教育

福澤捨次郎は、慶応元(1865)年に築地鉄砲洲の中津藩中屋敷に福澤諭吉の二男として生まれる。諭吉は、子どもたちの成長の記録を「福澤諭吉子女伝」に書き残しているが、発育の遅かった一太郎に対し、捨次郎の発育はとても早かったようだ。兄弟の年齢差は約2歳だが、「心身の働は正く同様なるが如」く、そのため幼少の時より双子と間違う人も多かった。諭吉は「まず獣身を成してのちに人身を養う」という教育方針を持ち、子どもたちが3歳から5歳までの間はいろはの字も教えず、その後も暴れたいように暴れさせた。

一方、明治4年、一太郎が8歳、捨次郎が6歳頃には「ひゞのをしへ」と称する文を書き与えた。「うそをつくべからず」などの7つの「おさだめ」から始まり、諭吉がその日その日に大切にしてほしいと考えたことを半紙に書き、読み聞かせた。一太郎は毎朝、今度はどういうことを半紙に書いてくれるだろうかと楽しみだったようだが、捨次郎の孫・福澤武の「私にとっての福澤諭吉」によれば、捨次郎はこの教えが「大嫌いで、毎朝あんな堅苦しい話をやられてまいっていた」と伝え聞いたとのことだ。

明治5年頃から、築地居留地の外国人に英語を習わせはじめたが、その他の学問は捨次郎8歳、一太郎10歳頃になってから数え方や暦、九九などを父母から授けた。その教授法は、「唯絵本のみ」で、「定りたる時間もなく、随意に任ずるのみ」であった。また、自らを息子たちの「朋友」と称し、「散歩などのときは見る物に随したがって其名を教え」ていた。家族団欒を重視した諭吉はよく家族旅行にも出掛ける。明治9年には一太郎、捨次郎と3人だけで関西にも旅行し、著名な寺社や名所旧跡をめぐることもあった。

青年期の学校と留学

明治12年になると、諭吉は2人を東京大学で学ばせたいと考え、大学予備門に入れた。大学予備門は全寮制であり、卒業すれば東京大学へ進学できる学校である。ところが、2人とも入寮すると胃が悪くなり、自宅療養で治り再び入寮してもまた胃が悪くなることを繰り返し、明治14年に諦めて慶應義塾本科に入学した。なお、明治15年7月に卒業した長男一太郎に対し、二男は兄より早く14年12月に本科を卒業している。

明治16年、一太郎、捨次郎は共にアメリカへ留学する。留学に際し諭吉は、学問の上達よりも健康の維持を大切にすること、日本で何が起ころうとたとえ父母が病気であると連絡を受けようと帰国してはいけないこと、などを記した心得書を与えた。この書の中で、一太郎には農学を、捨次郎には物理学の中でも電気学を学ぶことを勧めている。

2人は、到着後、オハイオ州オーバリンやポーキプシーで語学を学ぶ。捨次郎は同地にて外国人と争う経験をするなど、諭吉に書簡にてたしなめられるほど「元気」に過ごした。17年、一太郎はニューヨーク州イサカにあるコーネル大学へ、捨次郎はボストン郊外のマサチューセッツ工科大学(MIT)に入学する。捨次郎は父が勧める電気学ではなく鉄道に興味を持ち、土木工学を専攻した。2人の留学生活は、諭吉が知るアメリカ人や、門下生たちに支えられた。それでも諭吉は心配が尽きず、身近によい人材がいると2人の留学仲間になることを勧めていたようだ。

また、『福翁自伝』によれば、留学中の手紙は「三百何十通」にも達した。手紙の内容は生活上のアドバイスなど細かなことにまで及んでおり、羊羹など食料品も送っていた。捨次郎への手紙は、福澤が亡くなるまで大量に送られており、身近なことの報告から、細かな指示まで幅広く、現在の福澤研究の材料として生かされている。

捨次郎は無事に同大を卒業し、その後ヨーロッパを回って見聞を広め、2人は明治21年に帰国した。諭吉は、2人の帰国を大変喜び、三田の運動場にて慶應義塾の学生を中心に千余名もの人を招き酒宴を催している。

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