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【福澤諭吉をめぐる人々】
福澤捨次郎

2022/05/27

時事新報社社長としての取り組み

帰国の翌年、捨次郎は留学で学んだ鉄道土木を活かし、親戚である中上川彦次郎が社長をしていた山陽鉄道に技師として就職した。なお、諭吉は、就職後には、ひとり生活している捨次郎を訪ねるために家族や植木職人など総勢20人近くで神戸へ旅行をし、団欒を楽しんだ。明治24年には同社を退職、時事新報社に入社した。同年、諭吉の選考で、当時の兵庫県知事で、後に日英同盟締結の際功労のあった外交官林董の長女菊と結婚をし、その後は2男2女に恵まれる。

明治29年31歳の若さで捨次郎は時事新報の社長となった。昭和47年1月の福澤生誕記念日の講演会の中で、東京大学新聞研究所長を務めた内川芳美は、「彼はアメリカの新聞のセンスというものを身につけていた人物で、明治大正期のわが国では非常に珍しいタイプの新聞経営者だった」と捨次郎を評している。捨次郎は留学先であったアメリカの新聞の内容を精査熟読し、その手法を柔軟に取り入れた。社長として直接、間接に様々な挑戦を試み、他新聞に先駆けて多くの新例を築いていく。ロイター通信との独占契約や、米国紙が企画し呼びかけたミス・ワールドコンテストに応じて実施した新聞界初の全国「美人コンクール」、「女性速記者」大澤豊子の登用、「年鑑」の発行など枚挙にいとまがない。ここでは、その中でも板倉卓造が『五十人の新聞人』の中で語った言葉を用いながら4つの先駆けを紹介したい。

1つ目は、「社会面」の扱いである。当時の大新聞が政治論、政界記事、官庁記事等、硬派の取材に主力を置く中、時事新報は社会面にも力を入れた。殺人などセンセーショナルな事件に思い切って全一面などの紙面を割き、現場の見取図、実景を描き出した木版画を掲げ、その惨状を詳記する手法をとったことは画期的であった。

2つ目は、「案内広告」である。仲買案内として始めたものだったが、徐々に様々な業種の案内に発展。連日全一面を使用するようになり、時には200ページ近い広告大特集を行ったこともある。板倉によると「これが非常にもうかった」ようで次第に他の諸新聞が採用していった。

3つ目は、「新聞漫画を今日の隆盛に至らしめた其最初の、しかも其最大の功労者の一人」である北澤楽天(本名:保次)の発見である。新聞における漫画、そして社会諷刺やユーモアの効用を重要視した諭吉と捨次郎は、横浜の英字週刊雑誌にて奇抜な漫画を描く楽天を発見する。そして才能を見込んで引き抜き、時事漫画を担当させた。なお、一般にポンチ画と呼ばれていたものに「漫画」の新称を初めて用いたのも時事新報である。

最後は、「スポーツ奨励」である。スポーツに関しては、板倉が「時事新報が我新聞界に流行の先例を開いたものであると申して、これを咎める人はあるまい」と自称するほど力を入れていた。捨次郎は、慶應義塾内においても初代の体育会長を務めるなど「あらゆるスポーツに理解があり、そして奨励して金を出し」た。明治26年以来、「金銀賞牌、優勝旗等を特製し、全国各地に行われた学校や団体の運動会、諸種の競技会で優勝者に贈った」。当時「時事新報の金メダルをもらうということは最高の名誉だった」ようだ。さらに各種スポーツ競技、運動会等の記事に毎回多くの紙面を割き、「形容沢山の潤色を以て、始終の状況を具さに報道した」。大相撲の優勝力士に写真額を贈る現在まで続く慣例も時事新報が始めたものである。また、明治34年には、新聞社の主催として初の長距離競走の大会を上野の不忍池周辺で行った。これらは、「みな福沢捨次郎の創意にかくるものであって、彼自身優れたスポーツマンであったからでもあ」った。

北澤楽天画「晩年の福澤先生」。左上、 社長室に座っているのが捨次郎。(昭和6年、時事新報日曜附録『時事漫画』掲載)

先駆けと評価

大正15(1926)年、捨次郎はこの世を去る。その後「日本一の」時事新報は、昭和11(1936)年に廃刊となった。板倉は、その「衰運の由来を遡れば、其最大な因の一つは、彼の大阪進出の冒険による被害であった」としている。「毎日」「朝日」新聞が優勢の大阪へ進出を決断した人物こそ他ならぬ、捨次郎であった。時事新報は、大阪の失敗の後に、関東大震災被災、人事抗争、他紙による不買運動、労働争議などが重なり競争力を失っていった。経営立て直しのため、小山完吾、名取和作、武藤山治などが次々と社長として再建に尽力、門野幾之進も会長として私財を投じ努力したが好転せず、廃刊した(その後一度、板倉のもとで復刊しているが昭和30年『産経新聞』との合同に至り終刊している)。

本稿冒頭に板倉が捨次郎を絶賛する文を紹介したが、この文中には「ところが彼は其在世中、社外の人からも、また社内の者からも、其本来の人物をヒドく見そこなわれていたのは、悲しむべき事実である。大多数の人人は、彼を以て大の道楽者であり、浪費者であり、二世的驕児でもあるように云うに於て一致している」との文も記されている。孫の福澤武の言葉を借りれば捨次郎は周りから「遊び人」としてみられていた面があったようだ。しかし、捨次郎は、息子の名に時事新報の「時」から一字をとり「時太郎」と付ける程に時事新報に愛着を注ぎ、また日本において類稀なる先駆けと実績をあげた大新聞人であったことをここに記したい。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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