【その他】
【講演録】小幡篤次郎──智徳の人・敢為の人
2026/02/20
「家といふ空なもの」から「健全にして且楽しき新家族」へ
先に、小幡が「嫡子に限り家督相続を為すの弊を論ず」という論説を著し、封建体制の根幹をなす「家」制度の転換が必要であると主張したことを述べました。小幡は、明治31(1898)年6月4日から7日にかけて、その修正を協議する貴族院の特別委員会に出席し意見を述べています。
明治民法親族論についての政府側の説明には穂積陳重(ほづみのぶしげ)や梅謙次郎らが当たり、日本には他国に例をみない、素晴らしい純然たる家族制度があることを主張します。法律には社会の習慣を変える力はなく、我が国の実際の社会の有様に基づくことが必要で、故に伝統的な家族制度を重視して民法を編纂したというものでした。
小幡はそれに対し、民法で制定しようとしているのは、日本の伝統的な家族制度ではないと反論します。政府が日本の純然たる家族制度といっているのは、徳川幕府がその封建体制を支えるために、形骸化した家族である「家」を維持するために作り出し、守ってきた制度に過ぎないと主張します。そして政府が考える家族の本源、家族を家族と規定する源は何なのかと尋ねます。
小幡は実体を伴わない、ただ家という空なものを作ってはならないと考えます。たとえば彼は政府委員に、もし婚外子が生まれて母の「家」がその子を戸籍に入れることを拒絶した場合、その子の戸籍は独立して作るのかと尋ねます。すなわちゼロ歳の赤ん坊のみが記載されている、家族としての実体のない戸籍を作り、それを一家とするのかと質問するのです。政府の答えはイエスです。小幡は、家族がそのような姿であってはいけないと考えます。それは封建体制を維持するために、武家が作り上げた慣習に過ぎない「家」制度に基づくもので、決して日本の伝統的な家族とはいえない。
彼は、家族は智や徳を共有できるような、実体を伴う集団であり空間であるべきだと考えていました。小幡は明治21年に『小学地誌階梯』という教科書を執筆します。これは生徒たちが5泊6日の研修旅行をするという設定で、毎日見聞するものをその場で解説するというユニークな体裁をとっていますが、その記述には見聞で得た新知識、鉄道であるとか、電信、電灯、瓦斯灯(がすとう)といったもの、そうした新知識を父母への土産とするというコンセプトが含まれています。つまり家族における智の共有は、親から子へだけでなく、子から親への拡がりもあるわけです。
また先ほど徳の共有のところで述べた、徳はいかなる場面で育つか、あるいは育てるべきかに関する小幡の考えも、家族のあり方に関わっていると思います。
小幡は特別委員会で、家族の本源について、家族に何を求めるのかについて議論をしようとしますが、民法における家族が日本の"伝統的姿"という隠れ蓑をまとってしまったがために、本質の議論にはたどり着かず、結果、小幡は何度も同じような質問をすることになりました。現在夫婦別姓や同性婚の議論がなされていますが、私にはすぐに不便か否かの議論にすり替えられるようにみえます。議論の本位は、なぜ夫婦の姓が同じならば家族で違えばそうではないのか、性別が違えば家族だが、同性ならば家族でないのか、その点に皆が納得のいく説明がなされることではないかと感じるので、まさに小幡の心情が理解できる気持ちです。
結局小幡に突き付けられるのは、まだ議論の続きをするか、それとも条約改正という重大事案を前に民法を成立させるかという選択でした。彼は条文には理解しがたいものがあるとはしながらも、故にむしろ専門家である政府の委員を信じて、それよりもこの機に諸外国が認める法律を制定し、条約改正の時機を失わないことが大事である、臍(ほぞ)を嚙むような後悔をしないことであると述べ、いわば政治的判断で法案賛成にまわります。
実はこの時小幡がこだわっていたことが、もう1つあります。それは女性の再婚禁止期間と離婚後に妊娠がわかった際の父親の認定に関係するものです。彼は婚姻関係が破綻した時期と、離婚が成立する時期には必ずタイムラグがあるので、それを考慮せず法文化するのはおかしいと主張しました。この規定が撤廃されたのは、なんと2024年の4月です。小幡が自身の家族論を通すことは、むずかしかったのだろうと思います。
敢為の人
小幡の歿後、明治38(1905)年5月14日から6月26日にかけて、『時事新報』に彼の逸話が掲載されます。その中で、共に中津から江戸に出てきて福澤の塾で学び、塾長も務めた浜野定四郎は、小幡の事を「温厚篤実」「温良恭謙譲」という言葉をもって評すべきだが、中には猛烈の心火が燃えていて、しかし奇を好まぬために、その炎を押えて万事穏和を主としているようであったと述べています。
小幡の内にあって「猛烈の心火燃ゆる」ことは何であったのか。それは日本において近代社会をいかに形成するかという課題であったと思います。小幡は、近代社会において重要なことは、人びとがごく周囲の人との関わりだけでなく、国の政治について主体的に考えること、他人事ではなく、自分の事として捉えることであると考えていました。600年来の封建体制から転換し得た新しい社会は、人びとが智と徳を共有し、権利と、敢為の風潮を維持できる社会でなければならないと考えていました。
そのための礎石として、日本に対する意識、日本人としてのidentityの創出を考え、それを育て維持するものとして、情報ネットワークや新しい家族のあり方を考えたといえると思います。小幡自身が敢為の人であろうとするのと同時に、日本に新しい社会を作り上げるためには、人びとにも敢為の人であってほしいと願っていたと思います。
おわりに
小幡篤次郎を紹介する時に、どのように形容するのがよいのか、いつも悩んでいます。今回ご案内にも、近代日本の一知識人と書きましたが、そもそも知識人とは何か。
近世から近代への過渡期、小幡の時代における知識人とは、その「智」をもって社会と関わることができた人であったと思います。現代においては発信ツールがたくさんありますが、当時は社会に対して発信できる立場は限られていました。その中で「智」をもって社会へ発信し、社会と関わることができる、まさに小幡はそうした人物であったと考えます。その影響力も、たとえば先に述べた、人びとが政府の所業の良否を知るべきと述べた「農に告るの文」は、権中判事北畠治房の激しい弾劾を受けます。北畠は福澤と小幡ほど、世間を惑わし、民を誣(ふ)する兇奸はいないと批判します。
小幡は人びとに智を提供し、徳を示し、それらを人びとが共有することをめざし、また日本人としての意識のもとに、独立を守ることを提言します。ここで私達が小幡の考えを誤って解釈してはいけないのは、これまで見てきた彼の言動からもわかるように、彼が主張しているのは、国内政治にしても外交にしても、人びとが自分事として考える重要性、そのための日本人としての意識です。日本人第一主義とは違います。彼は「農に告るの文」の中で「程々に智恵を磨き」といいます。これも誤解を生じそうですが、程々というのは身の程を知れといっているのではなく、適切なということです。自分の事として考えられるだけの、情報を身につけるということなのです。新しい社会を形成するための必須条件を発信し続けた、それが小幡篤次郎の、近代日本における知識人としての姿であったと思います。
先日、中津市でワークショップを開いた際に、「もし小幡先生に会えるとしたら、何を尋ねたいですか」と聞かれました。私は迷わずに「明治30年頃の小幡先生に会って、これから日本はどうなっていくと思いますか」と尋ねてみたいと答えました。その頃から、私は小幡の考えが少しずつ変わっていったのではないかと考えています。先程、修身教科書の作成や未成年者喫煙禁止法について、小幡の意見が通らなかったことを紹介しました。それらだけでなく、貴族院議員としての小幡の提言は、ほとんど採用されません。中でも最も大きな挫折は、明治30年の金本位制度の導入です。彼は銀本位から移行する必要はなく、金本位制導入は時期尚早であると主張し続け、遂に貴族院で最後の1人となります。本会議で最終の反対弁論の機会を与えられた彼は、大勢はもう決定していると述べながら、審議の開始が銀本位制から変える必要があるか否かであったことを悔しがります。15人中8人が変えるべきと主張したため、銀本位制からの転換が出発点となってしまった。しかし8名のうちの2名は、金銀複本位制を主張していたので、金本位か銀本位かで言えば6対7で後者が多く、当初の設問が金本位制にするか否かであれば、6対9で銀本位か複本位かの議論になったはずです。彼は議員活動の中で、このような現実に多く直面していきます。
小幡は明治38年に胃癌で亡くなる前年から体調が悪く、別府などで療養し、そこから家族に手紙を書いています。手紙の中で彼が常に気にしているのは、日露戦争の戦況です。軍艦が撃沈されたとなると悔しがり、勝利の報には手放しで喜びます。小幡の考えは兵力よりは勢力ではなかったのか。そのための日本人の智徳ではなかったのか。日本の進むべき道は変わってしまったのか。
しかし、小幡先生に会うことは叶いませんので、私自身が学ぶことによって、その謎を解いていかなければなりません。20年前に服部禮次郎さんが、多くの人びとが小幡研究に参加することを可能にするために、著作集が編纂されなければならないとおっしゃいました。まだ不足はありますが、この度著作集全6巻が刊行に至りました。若い研究者の方々も小幡研究に取り組んでいただけるようになれば、たいへん嬉しく存じます。
ご清聴いただき、誠にありがとうございました。
(本稿は、2025年1月10日に行われた第190回福澤先生誕生記念会での記念講演をもとに構成したものです。)
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。
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