【その他】
【講演録】小幡篤次郎──智徳の人・敢為の人
2026/02/20
はじめに
本日はお忙しい中、本講演会にお越しいただき心より御礼申し上げます。この由緒ある場に立ち、みなさまに小幡篤次郎(おばたとくじろう)先生についてお伝えできることを、大変光栄に存じます。小幡先生は福澤諭吉先生の側にあって、その活動を支え続けた人物でありながら、今日まで伝記や著作集が編まれることがありませんでした。しかし2015年に亡くなられた福澤先生曾孫美和(みわ)様のご遺徳により、2020年より、慶應義塾と一般社団法人福澤諭吉協会による共同事業として『小幡篤次郎著作集』の編集が開始されました。完結前に刊行委員の川崎勝先生、そしてご支援をいただいた小幡先生曾孫鳥羽総吉様がご逝去されたことは、大変悲しく、また編集責任者としての力不足を恥じ入るばかりです。
漸く2025年7月、全6巻をもって完結いたしました。本日はそのご報告を兼ね、近代知識人として小幡が果たした役割について考えてみたいと思います。ここからは僭越ながら敬称を略して、お話しさせていただきます。
小幡篤次郎は、現在の大分県中津市にあった中津藩の藩士の子として生まれました。福澤家が十三石二人扶持という下士であったのに対し、小幡家はは二百石取りの上士でした。しかし篤次郎という名が示すように、生まれた時には父はすでに隠居して養子が家を継いでいましたので、実子としては長男でしたが、小幡家を継ぐことができない身分でした。幼少期から父や野本白巌(はくがん)らに儒学を学び、その後藩校進脩館(しんしゅうかん)に入学、元治元(1864)年には、同校で教鞭をとるまでになっていました。
一方福澤諭吉は、安政5(1858)年から、藩命によって江戸の中津藩中屋敷にあった蘭学塾で教え始めました。大阪の友人に宛てた手紙から察すると、最初は3、4年教師をして、そのうちまた他の命令が下ると思っていたようです。ところが咸臨丸に乗ってアメリカに赴き、その後幕府の翻訳の仕事も兼務するようになると、文久2(1862)年には約1年をかけて、植民地化された国々と文明が発達したヨーロッパの国々を見聞する機会を得ました。実際に自身の目で西洋文明を見て、福澤がたどり着いた結論は、日本の急務は洋学による人材の育成であるということでした。そしてそのために、自身が教えていた塾を充実させようと決意します。しかし1人の力では限界があります。そこで中津に帰省した際に、周囲の人びとに将来自身の仕事を助けてくれる有望な人材について尋ねました。その時、異口同音に勧められたのが小幡篤次郎でした。
福澤は当初江戸へ出る気がなかった小幡を、熱心に説得しました。そして元治元年6月、彼は弟や5人の仲間と共に福澤の塾に入ります。江戸に出た当初は、アルファベットもわからなかったといいます。小文字のbdpqの区別がつかないので、その形が妊婦に似ているからと、bは右の下孕みと呼ぶようなレベルでした。しかし、わずか2年程の間に英語を習得します。そして幕府の開成所という西洋の学問を学ぶ学校で、英学を教えるまでになります。徳川家の直接の家臣ではない陪臣を雇うことに、幕府内では反対もあったようですが、学術優秀であり翻訳もできることが決め手になったようです。
そしてその後は福澤の期待通り、慶應義塾をはじめ、交詢社や時事新報など、福澤の事業を生涯にわたって支えつづけました。そのため長く福澤の片腕、あるいは今は好ましい表現ではありませんが、「福澤先生の女房役」などと言われてきました。たとえば明治15(1882)年刊行の『自由官権両党人物論』第2編では、福澤は計画をたてることに優れている創業者で、対する小幡はそれを成功に導き維持する守成の臣であると書かれています。また23年3月5日付の『朝野新聞』には、慶應義塾があることを知る者また福澤諭吉の名前を知る者は、必ず小幡の存在を知っているとあります。
更に同時代人の小幡評価は、ただ福澤を助けただけでなく、小幡の学識の高さやその影響が福澤に業績をもたらしたともいいます。14年刊行の『新聞投書家列伝』には、福澤は出版に際して必ず小幡の校閲を得た、なぜならば小幡の学力は福澤より一等抜きん出ていて、また文章の力も漢籍の素養あるが故に、福澤は小幡に一歩及ばないと書かれています。前掲『自由官権両党人物論』第2編では、現在政界で世事、世の中の事を是非する者の多くは、小幡の薫陶によるものであり、自由だ民権だと主張している者は、まさに小幡の思想を伝える者であるとされています。
それほど学識があり、福澤も一目置き、政界に影響力をもった小幡が、なぜ著作集も編まれないままになってしまったのでしょうか。あまりに福澤に身近な存在であったがために、その業績が福澤の中に取り込まれてしまったのかもしれません。また彼の控え目な性格が、自身の業績を強く主張しなかったからともいわれます。しかし小幡の著作をみれば、決して福澤に追従しているわけではありません。福澤とは異なる視点や立場での活動もあります。本日は、小幡がどのような近代社会を構想し、それを実現しようとしたかについて、考察していきたいと思います。
智の共有と翻訳書の出版
小幡が福澤の塾に入ってからわずか4年後に、徳川幕府は倒れ、元号は明治へと変わります。小幡自身も「維新」あるいは「明治維新」と表現している、近世から近代への大きな転機が訪れました。小幡は「維新」を経験し、何を考えたのでしょうか。
福澤の塾は10年程名前はなく、ただ福澤塾とか蘭学塾とか呼ばれていました。しかし慶応4(1868)年4月付の「芝新銭座慶應義塾之記」の中で、ついに「慶應義塾」と命名されます。この「慶應義塾之記」は『慶應義塾百年史』に掲載されている松山棟庵の回想によると、小幡の文案に福澤が加筆してできたものであるといいます。
「慶應義塾之記」は、次のような言葉で始まります。「今爰(ここ)に会社を立て義塾を創(はじ)め、同志諸子相共に講究切磋(こうきゅうせっさ)し、以て洋学に従事するや事本(も)と私(わたくし)にあらず、広く之を世に公にし、士民を問はず苟(いやしく)も志あるものをして来学せしめんを欲するなり」。すなわち洋学に従事するということは、私ではなく公である。慶應義塾では身分を問わず、同じ志を持つ者が集まって、切磋琢磨しあいながら学ぶ、と宣言しています。これは、学問が特権であってはいけない、ひろく公に開かれ、智の共有が行われるべきであるという主張であると思います。私は、この人びとが智を共有すること、身分や立場に関係なく智を共有することは、小幡の生涯を貫く信念であり、目標であったと考えています。
小幡は智の共有のために、明治初期には多くの翻訳本を出版しました。明治元(1868)年の『天変地異』は、人びとが怪奇現象や神様の怒りであると思っているようなこと、たとえば雷や地震、彗星や虹などについて、実は理のあることで、原因があり当然の結果として起きていると説明します。この本は、その版の種類の多さから考えて、たくさんの人びとに読まれたと思います。大きくは初版と再版にわかれますが、それぞれに版木の彫りや挿絵に微細な違いのあるものが見つかっています。表紙も3種類以上が確認でき、活字本もあります。それだけ多く読まれた本であると思います。
日本はリテラシーの高い国であったといわれています。蔦屋のように、商売として貸本業が成り立ったということは、それだけ文字が読めたことにつながると思います。しかし、かといって誰もがむずかしい漢籍を読みこなしていたわけではありませんので、小幡はより多くの人びとに読んでもらえるように工夫をしています。
その1つは、意味をあらわす振り仮名を付けることです。これは小幡だけに見られる手法ではありませんが、彼は効果的に使っています。たとえば惑星という言葉には右側には「わくせい」と振り、左側には「まよひほし」と振っています。蛮野には「ばんや」「ひらけぬこと」、貯財には「ちょざい」「たくはへのかね」といった具合です。監督には「みかじめ」と振っています。このようにして、馴染みがないむずかしい言葉でも意味がとれるようにしています。
また挿絵も多用します。さきほど翻訳本と述べましたように小幡の著書は、教科書として執筆したものを除き、元となる原書があります。それは1冊のときも、この『天変地異』のように数冊を合せているときもあります。挿絵も原書に倣うことが多いようですが、たとえば『天変地異』では光の屈折を説明するところで、着物姿の女性が合わせ鏡で後ろ髪を確認している絵を使っています。これは読者がその原理を理解しやすいように、身近な例をつかって説明したと考えられます。
また明治3年に出版した『生産道案内』は、経済学の入門書です。小幡は、人びとが生活の中で意識せず何気なく行っていることにも、理論があることを示します。その中で私が最も重要だと思うのは、経済書です。突然押し寄せてきた資本主義経済の波は、生活に様々な影響をもたらしました。人びとにとって経済学は、食べるための、生きていくための学問ともいえたのではないかと思います。小幡はこの本で、貨幣の役割や外国貿易、国内流通といった基礎的な仕組みから、価格は何によって決まるのか、なぜ租税があるのかなどを説明します。たとえば、5000ポンドを所有している人物が1人いるのと、50ポンドを所有している人物が100人いるのでは、何が違うかが語られますが、その翻訳は資本の存在に関するとてもわかりやすい解説になっていると思います。小幡はこの後、戊辰戦争の上野での戦いの間も福澤が講義していたとされる、フランシス・ウェーランドの経済書を『英氏経済論』というタイトルで7年かけて全訳しました。
彼の経済書は、『天変地異』同様、多くの人に読まれたのではないかと思います。植木枝盛という著名な自由民権運動家がいますが、彼の読書日記を見ると『生産道案内』全2巻も『英氏経済論』全9巻も読んでいるようです。
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西澤 直子(にしざわ なおこ)
慶應義塾福澤研究センター所長・教授