【その他】
【講演録】小幡篤次郎──智徳の人・敢為の人
2026/02/20
条約改正問題
次に、外国との関係についての小幡の考えを、考察したいと思います。
明治8(1875)年2月に、小幡は『民間雑誌』に「内地旅行の駁議」と題する論説を書き、人びとの心がまだともすれば崩壊しそうな時期にあって、外国とどのように付き合えばよいか、日本にとって必要なものは何かを述べています。
小幡はパワーイズライト、威力が権力となる世界で、暴力的にならず、おもねることもなく、国の独立を維持するためには、兵力ではなく、「勢力を養ふ」ことが必要であると説きます。では、勢いと力は何によって育まれるのか。彼は、それは「綱(つな)」だといいます。小幡は、昔物語を共にするの綱、一政府を仰ぐの綱、言語を同(おなじ)ふするの綱、風俗習慣を同ふするの綱、墳墓の地を同ふするの綱、祖先功労を共にするの綱、学校を共にし遊戯を同ふするの綱があるといいます。そしておよそcommon cause (国自慢の種)となるものが千種万類重積すれば、それが人心を維持し国体を固める道具になるといっています。人びとの紐帯であり、個人が日本の国と結びつくidentity です。そうした「綱」によって、日本人という意識を持つこと、それが勢力を養うことに繋がり、暴力的にならず、また他におもねることもない、国の独立の維持に繋がると主張します。
福澤は『文明論之概略』の中で、この論説を「真に余が心を得たるもの」と述べています。この論説が『文明論之概略』に与えた影響については、平石直昭先生のご研究(『福澤諭吉と丸山眞男 近現代日本の思想的原点』)をご参照いただければと思います。
小幡が明治15年3月刊行の『交詢雑誌』に掲載した「条約改正論」では、国の治乱盛衰に最も関係するのは外患、外交問題であると述べています。そして小幡が指摘するのは「幾微の不利」、条約の中にうまく隠れてしまっている不利益です。小幡は、外交関係で何が問題であるのか、あるいは現在国が置かれている事態が的確にわかっていれば、解決方法を探ることができるといいます。しかし「知るなきの禍は、発せざるの前に之を拯(すく)ふに由なく、発するの後に之を拯ふの術なし」、つまり何が問題であるのかがわかっていなければ、防ぎようがなく、また禍が起こってから救う手立てがない。日本が直面している条約改正に必要なことは、日本の置かれている立場を正しく理解しようとする「我が民衆」の意識で、そうすれば政府は「国民の心を得て」条約改正交渉を行うことができるといいます。
『福澤諭吉著作集』第8巻の解説で岩谷十郎さんが実際の訴訟結果を引きながら、治外法権は一般的な日本人にとっては身近な問題ではなく、だからこそ福澤諭吉は明治17年の「条約改正論」や「通俗外交論」で「日本国中、津々浦々の小民に至るまでも」治外法権を自分の身に引き受けて心配することを説いたと解説されていますが、小幡は明治15年執筆の「条約改正論」の中ですでに、日本人が「幾微の不利」の意味、それが何をもたらすのかを理解することが必須であると述べています。
智の共有を目指した小幡がその先に重視していたのは、日本人としてのidentity を持つこと、いわば"日本人の創出"でした。日本という単位、ひとつのまとまりを理解することによって、国内政治や外交関係を自分の事、自分の問題として認識することができる。それが新しい近代社会を成立させ持続させる、そして日本の独立を守ることに繋がる。小幡はそのように考えていました。
徳の共有
これまで智徳の智について考えてきました。ここで徳について考えてみたいと思います。先に述べた「嫡子に限り家督相続を為すの弊を論ず」の中で、封建体制の象徴といえる「家」制度をなくすことで、小幡は徳が「興る」といっています。彼は近代においては、その時代にふさわしい新しい徳が必要であると考えていました。『福澤全集緒言』には、明治元(1868)年の頃、小幡が散歩の途中に古本屋でウェーランドのThe Elements of Moral Science を見つけて持ち帰り、みなで夢中になって訳したエピソードが書かれています。小幡が近世から近代への転換期に、新しい徳について関心を持っていたことがわかります。中津市には小幡の遺言で寄贈された彼の蔵書があり、その中には道徳学や倫理学に関するものが散見されます。
またJ.S.ミルのThree Essays on Religion も、1874年にロンドンで出版されるとすぐに関心を抱いたようです。中津市に小幡の蔵書として残っているものは、その年に出た第2版で、翌年の7月3日には早くも三田演説会でこの本を取り上げ、演説内容は8月2日の『郵便報知新聞』に掲載されています。演説会に参加した自由民権運動家の植木枝盛は、日記に「自然に任すべからざる論」と書いています。小幡はこの書をのちに翻訳し『宗教三論』の題で出版したことを先に述べましたが、その第2編の序で、ミルが「人道」を宗教外にたてようとしたことに触れ、数百年来宗教の外で思想を展開してきた日本の知識層は、人道が宗教から独立して存在することができることを確信できる、すなわち、宗教に基づかないモラル、徳が存在することを述べています。
そして小幡は、日本の近代社会、新しい社会において、最もふさわしい徳とは何かを模索し、確立することを目指しました。貴族院議員時代のエピソードを2つ、ご紹介します。
1つは、明治29年2月に第9議会で議論された国費による小学校の修身教科書の編纂に関してです。小幡は、修身論は古今の学者が論じ尽しても、標準というものが決められないむずかしいものである。意見を取り集めて取捨選択、あるいは折衷して作り上げられる性質のものではないと主張し、国費により編集委員会を作って1冊にまとめるという手法に反対します。
また明治32年2月の第14議会では、未成年者喫煙禁止法案が出され、小幡はそれに反対します。一瞬おやっと思われるかもしれません。小幡は未成年の喫煙禁止には、もちろん同意します。しかし、それは親が監督すること、親が教育上行うべきことであり、それを政府の力、巡査の力で制するというのは恥ずべきことだと主張するのです。どちらも小幡の反対案は却下で、法案は成立しました。
これらの主張に、彼の徳に関する考えが表れていると思います。徳とは人と人との交わり、家庭や社会において涵養されるものでなければならない。社会にふさわしい徳を、人びとが主体的に作り上げていくことを重視していたことがわかります。
近代社会を支える情報ネットワーク
小幡が生きていた時代と、今私たちが生きている時代を考えたとき、情報革命という点では、同じような状況にあると感じています。1853年のペリー来航以来、情報の質も量も大きく変わったといわれています。身分や地域という垣根がなくなり、人びとはいわば情報の洪水に飲み込まれていきました。まさに1990年代からの急速なITの進歩に翻弄されている現代も、同じような気がしています。
封建体制の下では、情報の出所は限られていて、その出所により内容の信憑性がある程度保証されていました。しかし封建体制の崩壊と共に、その保証がなくなってしまった。情報の洪水にさらされながら、何が正しくて何が誤りであるのかの判断基準がわからないわけです。
小幡がその担保を新たな組織で担おうとしたのが、明治13(1880)年に発足した交詢社でした。交詢社はイギリスの紳士倶楽部を手本にした「知識交換世務諮詢」を行う社交クラブと説明され、その発端は、福澤の手紙を信じるとするならば、小幡の発案によるものです。ただ12年に福澤が出した手紙のうち、交詢社に言及しているものは21通、そのうち入会を勧誘しているものも11通に及びますので、交詢社設立は福澤の意向で始まったが、福澤が表に出ることで政治的な組織と思われることを嫌い、あえて小幡を前面に自身は黒子に回った、と説明されることが多いと思います。このあたりは何とも考証がむずかしいところですが、少なくとも発足後、正確な情報を発信し、都会と地方の情報格差をなくすための組織となることに尽力したのは、小幡篤次郎でした。
交詢社は明治13年1月25日に発足すると、翌月の5日には『交詢雑誌』を創刊します。この雑誌では各地の交詢社員が、病気や土地の売買、相続など実に多様な質問を幹事に送り、質問が雑誌に掲載されると、他の社員が回答する、あるいは本局でふさわしい専門家の回答を準備して掲載することが行われました。小幡は発足以来幹事を務め、大会では来簡について報告しています。残存している彼の手紙からは、回答者探しに奔走する姿が垣間見られます。智の共有はまた、情報の共有でもありました。
| カテゴリ | |
|---|---|
| 三田評論のコーナー |
