【その他】
【講演録】小幡篤次郎──智徳の人・敢為の人
2026/02/20
君民同治と日本人の創出
いずれにしろ、明治を迎えて小幡がまず取り組んだことは、学問を特権にしないこと、すなわち人びとと智を共有することでした。学問を根深く植え込みたい、そうすれば社会は安定すると考えていたわけです。
明治7(1874)年2月に創刊された『民間雑誌』に、小幡は「農に告るの文」を掲載します。その中で彼は、人びとが政治に関心を持ち、自分の村のことのように国のことを考えることが必要であるといいます。政府の所業の良否を知るのは「一国人民」の職掌で、日本人として生まれた限りはいかなる立場であっても、運上や地券、学校、説教、つまり税制や学制などを弁じ、日本の政府の良否を考えるべきである。読書を心掛け、新聞紙を読むことによって事態を知る。いずれ人びとの中から、議事院に立って日本の政治を行う人が出てくると述べています。
小幡は人びとが学問をすることによって、君主と人民の代表が共同で政治にあたる体制、すなわち君民同治が実現できると考えました。人民の意向を反映した政治が行われれば、そのことによって社会に安定がもたらされると主張します。小幡が目指していたのは、人びとの意思が政治に反映される社会でした。
明治14年7月に出版された『英国憲法論』に小幡が書いた序文には、開国以来日本の学問や技芸は一朝にして変化し、政治体制も変化していくが、とどまるべき姿は君民同治であると記されています。22年、国会開設前年の正月には、600年来の封建世禄の陋態から、西洋文明の映射を受け、武断政治を倒し、「大政維新」と5か条の誓文によって君民同治の端緒が開かれたといいます。そして憲法発布と国会開設は、「我国未曾有の大盛事」であり、「我三千五百万の兄弟」は共にこれを慶賀すべきであると述べています。彼は「維新」以来一貫して、人びとが政治に関心を持ち、君主と人民が分掌する政治体制を目指していました。
小幡は、明治8年6月に刊行された『民間雑誌』に、アレクシ・ド・トクヴィルの Democracy in America を援用して、「嫡子に限り家督相続を為すの弊を論ず」を執筆します。封建制から一気に郡県制へと変化を遂げた、その変化を強固なものにするためには、封建社会の基幹をなしていた「家」制度の転換が必要である。そのためには長男にのみ相続の特権を許すのではなく、男女を問わず子どもたちには均等に相続させるべきである。均等相続が実現すれば、家庭内に特権階級がなくなる。その結果、男女同権が行われ、民権が復し、道徳が興り、敢為(かんい)の風潮になると主張します。小幡が、民権が復するという、この「復する」という表現に小幡の意識が表れていると思います。すなわち民権はもともと人びとに存在するもので、600年間の封建体制下でそれが失われてしまっていた。新しい体制の下では、人びとが再びその手に取り戻すべきであると考えるわけです。
そこで次に、地方自治について考えたいと思います。
地方自治への関心
福澤は、明治9(1876)年に「分権論」を執筆しますが、その中で「小幡君が抄訳せる仏人「トークウヰル」氏の論に云(いわ)く」として、小幡が同年12月発行の雑誌『家庭叢談』に掲載した、政権と治権に関する論説を参照しています。福澤が分権論を執筆したのは9年11月ごろなので、時期を考えると、福澤は小幡の掲載前の原稿を見たか、あるいは翻訳にとりくんでいる小幡の意見を聞きながら、自身の意見をまとめたのではないかと思われます。小幡のトクヴィルからの訳出とその福澤への影響については、柳愛林(リュエリン)さんのご研究(『トクヴィルと明治思想史〈デモクラシー〉の発見と忘却』)に詳しいので、そちらをご参照ください。私が強調したいのは、小幡の業績が少なからず福澤に影響を与えているということです。そしてなぜ地方自治について、小幡の方が福澤よりも先に、しかもより具体的に考え、トクヴィルの翻訳に取り組んだのか。
さきほど桑名豊山に触れましたが、もう1人鈴木閑雲(かんうん)という人物についても紹介したいと思います。彼もまた大身衆という中津藩で家老となる家柄の出身です。天保3(1832)年の生まれですから福澤より2つ年上で、版籍奉還後はすぐに中津藩の参政を務めています。桑名同様、近世から近代への過渡期に、政府が朝令暮改する混沌とした情勢の中で、行政を担った人物になります。
小幡は明治4年11月に中津市学校の校長となって中津に赴任し、中津に滞在する1年半強の間、鈴木とある案件について相談をし、東京にもどってからも頻繁にやりとりをしています。小幡と鈴木が相談をしていた案件とは何か。それは士族たち、旧武士層への授産です。明治になり俸禄は続いているものの、いずれなくなる。士族の経済的な自立は大きな課題でした。鈴木と小幡は士族たちへの授産について、養蚕製糸業を中心に、教師の問題から資本や苗木等原材料の調達などあらゆる課題について相談しています。つまり小幡は福澤よりは格段に、士族の身の振り方について現実問題として考えざるを得ない、そういう立場にあった。それ故に、地方自治論についても高い関心を抱いたと考えられます。
また、桑名豊山も鈴木閑雲も、大変興味深いのは、明治11年に政府により三新法が定められ、地方自治の新しい体制が定まっていく中で、地方自治の現場に戻っていくことです。桑名は11年の日田郡長を皮切りに、大分郡長、東国東郡長を歴任します。鈴木は11年から長い間、中津を含む下毛郡長を務めます。つまり再び、転換期を乗り切った官吏たちの手腕に頼らざるを得なくなった現実があるのではないかと思います。廃藩置県によって大きな変化を迎えて一度は断絶に成功したとしても、結局は、近世末に行政の現場にあり、混乱の時期を乗り切った手腕に、頼らざるを得ない現実があった。小幡は中津の課題を間近で見ていたことにより、日本が抱える地方自治の課題にいち早く関心を抱き、解決法を探ろうとしたのではないでしょうか。
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