【その他】
【講演録】小幡篤次郎──智徳の人・敢為の人
2026/02/20
『学問のすゝめ』初編の誕生
智の共有を広げるという点では、当時のベストセラーといえる『学問のすゝめ』初編の存在があります。『学問のすゝめ』は福澤諭吉の著作として知られています。福澤生前に出版された全集に掲載されていますので、福澤自身も晩年は自分の著作という意識しかなかったと思います。しかし明治5(1872)年に出版された初編は、小幡篤次郎同著となっています。なぜ同著なのでしょうか。
初編の端書には、福澤と小幡の連名で、この書は中津に学校ができるにあたって学問の趣旨を中津の人びとに伝えようと思い綴ったが、ある人が読んで、広く世間に布告すればその益するところも広がると勧めるので、慶應義塾の活字版を以て刷り、同志の一覧に供すると書かれています。この端書は明治4年12月付ですが、その前の月に中津市学校という洋学校ができ、その初代校長として小幡篤次郎が赴任しました。そのためこれまでは、端書にある中津の学校とは中津市学校のことで、中津の人びとに対して、身分の低い下士であった福澤の名前だけでなく、上士であった小幡の名前を加えることによって、幅広い層に関心を持ってもらえる。小幡の名前はより多くの読者を獲得するための、いわば名義貸しであると言われてきました。本当に小幡は名義を貸しだけなのかと疑問を抱きながら、これから『学問のすゝめ』初編の成立について、考えてみたいと思います。
明治4年7月14日に廃藩置県の詔がでます。版籍奉還後、質は変化したが存在はしていた中津藩が、ここで消滅し中津県が誕生します。その直後20日付で友人の山口良蔵に宛てた手紙で、小幡はこの度の「非常之ご改革」について、600年来の封建体制を解き一気に郡県制となした、1800年代の美談であると述べます。もしこれで体制が安定すれば、外国からはアジアのイングランドという評価も受けると聞く、これは単に徳川体制の崩壊ではなく、武士が政権を握って以来、すなわち600年来の大改革で、それを一気に成し遂げたと評価しています。そして彼はこの機に乗じて、文学すなわち学問のことですが、学問の根を深く植え込みたいといっています。人びとの間に学問が実を結べば、人心は少々の変遷があっても大破することはなく、次第に佳境に入る。つまり彼は廃藩置県という大変革に際して、人びとが学問をし、智を共有していくことによって、安定した新しい社会が形成されていくと考えました。
そこで『学問のすゝめ』との関係です。中津市に保存されている資料の中に、廃藩置県後中津県が大蔵省に提出した書類の控えがあります。中津県の用箋であり、中津藩の公印(これはまだ中津県の公印ができていなかったので、中津藩の公印を代用したのだと思います)が押されており、提出先の大蔵省の割印もありますので、正式な文書です。その中に明治4年10月2日付、廃藩置県から凡そ3カ月後に提出された、布告文上木伺がありました。上木伺というのは出版願です。その内容は、洋学校を設立する許可をいただいた際に伝えていた「県内士民え布告文」を、「所望之者」があれば「新聞紙」同様にあまねく広く世間に流布させたいと、そのための出版許可を願い出たものです。中津に学校をつくる計画があって許可を得たが、そのときに「県内士民え布告文」というものを示した。それを希望者に広く配布したいというわけです。
この「県内士民え布告文」とは何か。福澤研究センターが中津の郷土史家から寄贈を受けた資料と中津市がもっている資料の中に、「県内士民え文学告諭文」と題した綴りがありました。どちらもほぼ同じ文です。それを読むと、なんと「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずといへり」で始まっています。『学問のすゝめ』の初編と同じです。さらに冒頭だけでなく、ほぼ8割程度はまったく同じ文言です。最後の方になると、ところどころ異なる部分も出てきますが、完全に異なるのは、『学問のすゝめ』でいうと末尾の240字分になります。「県内士民え文学告諭文」は、まさに『学問のすゝめ』初編なのです。そして、この出版願から1週間ほど後に、中津県から洋学開業願が提出され、そこには慶應義塾の協力を受けて洋学校を設立することが記されています。
つまり新しい学校の設立が決まり、中津の人に向けて福澤が文章を書き、それを読んだ人に勧められて慶應義塾で出版したという、『学問のすゝめ』初編の端書と矛盾するわけではありませんが、何となく違和感があります。違和感の一番の理由は、慶應義塾の援助を受けて洋学校を開業するという洋学開業願が後に出されている。それよりも前に、出版願が出されているという点です。つまり告諭文に関しては、最初から出版の意図があったのではないかと感じてしまうのです。
ここで考えなければいけないのは、まず誰が中津に洋学校を建てようと考えたのかということと、「県内士民え文学告諭文」と『学問のすゝめ』初編で異なっている部分は何かという2点になります。
まず学校について、これは福澤の手紙を見る限り中津の人びとの発案です。明治2年4月に福澤が従弟に宛てた手紙の中で、中津で洋学が盛んになったと聞いた。洋学校ができるなら何といっても父母の故郷であるので、自分も出かけて行き協力すると述べています。ただそれから2カ月程後の中津人同士の手紙には、福澤を招聘しようとしたら、非常に高額の給料を要求された。その金額なら40名を東京に留学させられるので、留学が妥当と判断したという伝聞が書かれてもいます。福澤には中津の学校に積極的に関わる意思がどの程度あったのか、気になるところです。
また、「県内士民え文学告諭文」と『学問のすゝめ』の異なる部分ですが、前者は表題が示すように、後半になると県が人びとに布告するという立場が明確に出ています。また学問を勧めるために、村役人は配下の農民の学問の世話をするようにといった、行政機構の利用も説かれます。そして中津県の官員、つまり役人である自分たちが、朝廷のご趣意を奉じて諸々の民に伝えることとして、知見徳義を備え、職分を知り、一身の独立を大日本国独立のための助けとすべきと説かれています。官員であることを主張し、朝廷や「御一新」への敬意がちりばめられているこの文章を、果たして福澤諭吉が書いたのか。
結局、廃藩置県の4カ月後に府県の合併が行われて、中津県は小倉県に併合されてしまうので、中津県としては「県内士民え文学告諭文」を出版することも、洋学校を建てることもできなくなってしまいます。学校の設立準備は進んでいたので、11月末に旧藩主と旧中津藩士たちの互助組織からの醵金によって中津市学校が設立され、前述のように初代校長として小幡篤次郎が赴任します。
この中津市学校の開校時に、旧藩主の名前で「中津市学校之記」という文章が記されて人びとに示され、その中に学問に関する文書を読むように勧める一節があります。「中津市学校之記」には福澤諭吉の字で加筆訂正された原稿が残っており、福澤は自ら、その学問に関する文書を「県庁よりさとしの文」という表現から「教師の著せし学問すゝめ」へと訂正しています。ようやく小幡篤次郎が登場してきましたが、もう少し、前提条件に耳を傾けていただければと思います。
転換期の中津藩、中津県の文書を読んでいると、日々の行政をどう処理していくか、これまで作ってきた文書の書式をどのように変え、提出先をどこにすればよいのか、悩みながらも業務をこなしていく役人達の姿が窺えます。体制が変わっても、休むことなく人びとの日常生活は続くわけですから、「ちょっとよくわからないので、窓口は閉めます、いつ開けるかわかりません」とはいかないわけです。この転換期を乗り切った行政担当者の手腕は、もっと評価されてしかるべきではないかと思います。幕末期の藩政を担い、版籍奉還から中津県の消滅までを担った旧藩士達の優秀さに、もっと着目しなければいけないと考えます。
ここで桑名豊山(くわなほうざん)という人物を紹介したいと思います。天保8(1837)年の生まれですので、年齢は福澤と小幡のちょうど真ん中くらいです。彼は京都留守居家老を務め、大政奉還時に二条城に召集された四十藩の重臣の一人です。福澤は中津のことを小藩、小藩といいますが、譜代の十万石ですから、決して小藩ではないと思います。桑名が幕府の対外政策の諮問に対して、藩主に代わり答申した文書も残っています。版籍奉還後は、中津藩において大参事を務めました。藩政の混乱が必至であったときに、実務のトップとして切り盛りした人物といえます。私は中津藩、中津県での彼の立場を考えると、「県内士民え文学告諭文」や洋学校の設立に、彼が関わっていないということはありえないと思います。
桑名は合併後、最初は小倉県に出仕しますが、辞職して東京の慶應義塾で英学を学びます。やはり中津藩士で福澤の門下生であった雨山達也(あめやまたつや)の回想によると、小幡がドレーバーの『科学及宗教の衝突』を講義した際には、桑名がその講義を筆記したそうです。そして明治10年小幡が、J.S.ミルのThree Essays on Religion を翻訳し『宗教三論』と題して出版した際には、第1編、2編共に校閲者として桑名豊山の名前が併記されています。つまり桑名と小幡には親しい交流があり、初代校長となった小幡も、当然、洋学校設立準備には関わっていたであろうと思います。
自筆原稿が出てこない限り結論はでないのですが、私は少なくとも「県内士民え文学告諭文」には福澤以外の手が入っていると考えています。そして『学問のすゝめ』初編へと改訂する際に残った部分があるからこそ、最初は「教師の著せし学問すゝめ」といい、同著としたのではないかと疑っています。しかし2編、3編と続き、年も経て行けば割合は薄まっていきますので、『学問のすゝめ』は福澤の著作として認知されていったのではないかと思います。
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