【その他】
【講演録】福澤諭吉と在来産業──酒造業に対する考え方を中心に
2024/07/26
宇都宮三郎に「化学器械学の主義」を習う
さらに明治18(1885)年12月15日付の『時事新報』の社説「尾州知多郡の酒造改良」では、明治16年春ごろ、知多郡の酒造家百数十名が工部省に請願し、工部大技長宇都宮三郎を招聘、「化学器械学の主義」を習ったという話を紹介しております。知多郡の酒造家百数十名というのは非常に多いと思われるかもしれませんが、知多郡というところは非常に酒造りの盛んなところでした。今でも盛んです。盛田の「ねのひ」という銘柄のお酒は東京でも出回っておりますし、半田の中埜酒造は、その地域の酒造家としては有名です。もう少し盛田の話をしますと、灘のお酒の「忠勇」は今は盛田の傘下に入っており、関西のほうでよく使われる「マルキン」という銘柄の醬油も盛田の傘下に入っています。盛田はそうやって合併吸収を行って大きくなっています。
その他にも知多地方には酒造家が少なからずいますが、この当時はもっと多かったのです。ちなみに、明治16年に日本全体でどれくらい酒造家がいたかというと、1万を超えます。この中には規模の大きいところから小さいところまでありましたが、醬油醸造業者もこの時代1万を下らないという状況で、本当に日本全国津々浦々お酒、醬油を造る醸造業者がたくさんいたわけです。現在、日本酒メーカーは千数百です。それでも結構多いです。醬油メーカーもだいたい同じくらいの数です。
話を戻します。明治16年春ごろ、知多郡の酒造家百数十名が工部省に請願して、工部大技長宇都宮三郎を招聘して、そして「化学器械学の主義」を習った。宇都宮三郎という人は福澤と非常に親しかった人です。化学者ですが、福澤はとても宇都宮のことを尊敬しており、福澤の家の中に宇都宮三郎のための部屋を作っていたという言い伝えも残っています。
福澤はこの社説の中で「元来醸造の術は純然たる学問の事にして化学上より研究せざる可らずとの道理ハ宇都宮君の懇諭する所」であると記しています。醸造というのは純然たる学問であって、化学の上から研究しなければならないという道理は宇都宮三郎が懇諭するところであったと。それを受けて明治16年の秋に今の半田市の亀崎では当時大きな酒造家だった伊東孫左衛門らが中心になって清酒研究所というものを設立しております。
宇都宮は、この地域の酒造家たちに酒が腐らない防腐法を伝えたわけですが、福澤は社説で「宇都宮君の防腐法を以て此損失を免かれしめたるは独り知多郡の酒造家を利するのみならず日本国の損失を救ふたるもの」と言います。宇都宮三郎の酒の腐敗を防ぐ方法はこの地域の知多郡の酒造家のためになっただけではなくて、日本国の損失を救ったのだというわけです。
具体的にこの宇都宮の防腐法とはどんなものかというと、要約すれば、丘の日の当たらない斜面に穴を掘って、その中に貯蔵するというものです。お酒というのは熱と光に弱いので、ここでは主に熱に弱いという性質を克服するために、温度の低い穴倉を掘って、その中にお酒を貯蔵する。すると、実際に夏の時期を過ぎてもお酒が腐らなかったということがこの記事の中で紹介されています。そういうことを宇都宮は知多郡の酒造家たちに伝えたわけです。
そして『時事小言』の中では「物理実学ノ目的ハ此原則ヲ知テ之ヲ殖産ノ道ニ活用スルニ在ルノミ」「一国ノ貧富ハ此殖産ノ事ヲ学問視スルト否トニ在テ存スルモノト知ル可キナリ」と記しています。
福澤諭吉の酒造業への期待
以上のように福澤諭吉は酒造業にいろいろな意味で期待をしていたわけですが、要点は3つ挙げられるかと思います。1つ目は当時の工業部門で日本最大の産業であったので財政面で期待をしたということです。明治32年には酒造税は地租を抜いて国の税収の1位になっている。財政がしっかりするということは一国の独立に関わる。福澤から見れば一国の独立という意味でこれは非常に重要であるという位置付けになっているわけです。財政基盤がしっかりしないと国の独立も保てないからです。
2つ目としては酒造業の担い手の豪農、すなわち「ミッズル・カラッス」、中産階級層に日本の近代の担い手として期待をした。同時に福澤の門下生の多くがこういう家の出身でしたので彼らを守るために公正な税の取り方を主張する。そういうわけで「酒造業者を保護すべし」というような社説を書いたのです。彼の主張は明治17(1884)年の商標条例という形で実現することになります。
3つ目としては、日本の経験と西洋の科学の融合を期待したということです。科学的根拠に基づく醸造をしなければならない。伝統と近代の融合と言ってもいいでしょう。ただ、ここで私が注目するのは、福澤は例えば酒造をやるのに機械を用いよ、手造りでは駄目だというようなことは言わないわけです。科学的な考え方、理論的な考え方を酒造業に当てはめないといけないと言うのです。いわば酒造業のソフト面での近代化ということを言っているのであって、決してハード面で近代化しろとは言っていないわけです。
在来産業の中には製糸業の器械製糸などのように、近代産業になったものもあるのですが、福澤は酒造業にそれを求めてはいない。ここからは想像になりますが、福澤は手作りだからこその良さ、というものを重視していたのではないだろうかと思うのです。今現在、酒造業や醬油醸造業はかなり機械化が進んでいます。特に「獺祭」は機械化、あるいはデータ化が進んでいるとよく言われるのですが、実際に工場の中に入って製造過程を体験した人の話によると、「獺祭」も実は触覚、触ってみた感じや視覚や臭覚などの五感を研ぎ澄まして造っていると言います。
現在でも酒造業はそのようにして酒を造っているという面があります。そのあたりは科学的な理論とは真反対のような感じもします。しかし、福澤という人は、一方的に近代化ばかりを推し進めろというのではなく、日本の古き良きものは大切にするという側面も持っています。科学的な理論をもちろん酒造業の中に生かしていかないといけないけれど、同時に日本に古くからあるような、感覚的なものを捨て去るべきではない、と考えていたのではないでしょうか。ですから日本の「経験」と西洋の科学の融合ということで言えば、「経験」を別に捨てろと言っているわけではなく、それにプラスして西洋の理論を結びつける産業になることを酒造業に期待していたということかと思います。
現在、酒造業と同じ醸造業である醬油醸造業は、世界にその製品が広く普及しているような状況です。日本独特で、日本の中で育まれた産業で、他の国がなかなか真似することができない産業が生き延びているという感じがいたします。近代以降、西洋の技術や知識などを取り入れて大々的に工場を作って、近代化を遂げた産業はたくさんあります。しかしそれらの産業の中には、一時期は優勢になっても今は衰退してしまっているものもかなり多いのです。その点、醸造業というのは地道ながらも日本の古きよきものを伝え、世界で広く受け入れられていると思います。福澤もそういう日本の醸造業の良さを感じ取り、さらにそれを強化するという意味で西洋の理論を結び付け、さらに強靭な産業にしていくことを願っていたのではないかと思うのです。
以上、本日はご清聴いただき、どうも有り難うございました。
(2024年5月15日「福澤先生ウェーランド経済書講述記念講演会」での講演を元に構成したものです)
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。
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