【その他】
【講演録】福澤諭吉と在来産業──酒造業に対する考え方を中心に
2024/07/26
財源としての酒造業
ここからようやく本題に入り、福澤が酒造業に対してどのような思いを持っていたのかということを紹介していきたいと思います。先ほど申しましたように、福澤の時代の酒造業は、工業の中でも最も生産額が大きかった。そこでまず、福澤は酒造業を国の財源として有望であると考えていました。福澤は『時事新報』の明治16(1883)年7月9日と11日付の社説に「酒造家ノ状況」という題の文章を書いています。「国財ヲ増加スベキノ要……其ノ増加は専ラ酒税ニ依頼スルノ最モ妙ニシテ最モ容易」と述べています。国の収入を増加させるうえで酒税というものに頼るのが最もよく、最も簡単なのだと言っている。
それに続いて、同じ明治16年7月12、13日付の『時事新報』に「酒造業ヲ保護スヘシ」という題の社説を書いています。「造酒ノ有様ヲ見ルニ今日既ニ屈竟ノ税源ニシテコレヨリ得ル所ノ税額ハ地租ヲ除クノ外日本政府歳入ノ最大部分ヲ占ムルノミナラズ……地租ト其金額ノ多少ヲ争ヒ或ハコレニ凌駕スルノ予望アル程ノモノ」。「屈竟」というのは「最も優れた」という意味で、「酒造家ノ状況」に書いてあることと同じ意味のことを述べています。その税額は地租を除いて日本政府の歳入の最大部分をその当時既に占めていると。当時はまだ国税の中で地租の占める割合が大きかったのですが、酒造税はその次に多かったわけです。しかも、地租と金額を争ったり、あるいはそれよりも上回るような見込みのあるほどのものであると言う。そのように今後も財源として有望であると言っているわけです。実際、もう少し後になりますが、明治32(1899)年には酒造税は地租を上回って国税中トップの金額になります。その後もたびたび1位になります。彼が『時事新報』で書いていたことは当たったわけです。
明治14年の政変(1881年)の直前に書かれた『時事小言』という書物があります。大隈重信や、あるいは福澤の門弟の人たちがまだ明治政府の中にいるころに書かれたもので、明治政府に対する提言の書という性格を持っていますが、その中でやはり酒造業に言及している部分があります。
少し長いので要約しますが、天保9(1838)年に盛田久左衛門という今の愛知県常滑市小鈴谷の人物が酒造改革を行いました。この家は後にソニーの盛田昭夫さんが出た家で、盛田という会社は、今でも酒も醬油も味噌も造っている、業界では大きな会社として健在です。その盛田久左衛門の酒造改革を福澤は評価している。そして、全国的にこの酒造改革以前の古い方法で酒造を行うと仮定すると、3,400万円の損になると記しています。逆に、盛田久左衛門が考え出した新しい酒造の方法によって3,400万円分が利益になったというわけです。これは当時の政府歳入の半額よりも多く、酒造改革によってできた新しい酒造方法は、国に益するところ大であるとしています。
この酒造改革というのは具体的にどういうことかと言いますと、簡単に言えば、仕込みの際に水の量を多くしてすっきりと洗練された味のお酒にするということです。それ以前の時代のお酒の造り方ですと非常にどろどろとした甘いお酒になりました。しかも盛田久佐衛門の酒造改革の結果、仕込のときに使うお米に対してできるお酒が倍になった。たくさんできるし、しかもすっきりとした洗練された味になり、非常にいいことをしたと評価しているのです。
3,400万円の損亡というこの金額を今のお金に換算するのはなかなか難しいのですが、例えばお米を介して換算すると、大体この時代の1円が今の3万円ぐらいに当たるかと思います。ですので、今のお金にすれば1兆円くらいの損になるという話です。これは政府歳入の半額よりも多いということなので、すると当時の政府の歳入は2兆円ぐらいということになります。現在の国家予算の歳入は100兆円を超えているので、それと比べると少ないですが、ともかく当時の日本の社会では酒造業の位置というものは非常に高かったということがわかるかと思います。
酒税に対する意見
ふたたび明治16年7月9日、11日付の『時事新報』社説を見てみます。この中で酒造家が言ったということで次の話を紹介しています。「酒屋一統ハ決シテ酒税ノ増加スルヲ好ムニハアラザレトモ政府能ク酒屋ノ事情ニ通曉シテ実地適応ノ規則ヲ施行セラレナバ仮令(たとい)税額ヲ増加スルアルモ却テ之ヲ便利トスルノ底意ナリ、其要旨ハ酒桶口引寸法ヲ改正スルコト(第一)検査ヲ滓引後ニ施スコト(第二)及ビ酒税収納ヲ延期スルコト(第三)……税額ニ喋々スルニアラズ検査手続等ニ関シテ改正ヲ望ムモノ」であると。
少しわかりにくいかと思うので説明します。酒造家はもちろん税金を取られるのは好みはしないのだけれど、税金の取り方を彼らが納得するような形でやれば、決して税を納めることを嫌がらないと言っています。逆に当時の税の取り方というのは、酒造家にとっては不満を持つような取り方だったのだということです。
では、どうすればよいかということで、福澤は3つほど挙げているのですが、1つ目は「酒桶口引寸法ヲ改正スルコト」。これはどういうことかというと、酒の仕込み桶を新調する際に税務署がそれを調べに来るわけです。そこで、桶の一番上の部分の径を調べる。それから桶の真ん中の部分のそれを調べ、桶の底の部分のそれを調べ、あとは桶の深さを調べてそこから計算して、この桶は何石の酒が造れる、というような検査をします。
その際、当時の税務署はその桶の上のところから1寸まで酒を仕込むものとして桶の容量を計算していたそうなのですが、それは現実的ではない、それほど上のほうまでは仕込まない、実際にはせいぜい上から3寸ほどのところまでである、と述べています。つまり上から3寸のところまで酒を仕込んだとみなして計算すべきだ、と言っているわけです。
次に「検査ヲ滓引後ニ施スコト」。滓(おり)というのは、酒の醸造のときに生ずる不純物です。酒を造っている間にその不純物ができるので、それを取り除いて最終的に製品にするわけですが、税務署は滓をまだ引かないうちに検査に来るので不純物を含んだ状態のお酒を検査することになる。検査が終わるまでは不純物を取り除いてはならないという決まりになっていたということですが、滓が混じっていると酒が腐敗しやすいので、検査を待つうちに酒が腐敗してしまった例もあるということを述べ、検査は滓を引いた後にすべきであると述べています。
3つ目は「酒税収納ヲ延期スルコト」。その当時の酒税というのは4月と7月と9月、それぞれの月末に分割して納めることになっていた。ところが、酒造の行程からすると前年の暮くらいから仕込み、3月までに造って4月からぼちぼち売り出すようになっていた。だから4月は、まだそれほどお酒が売れていなくて収入が入っていない時期で、しかも、原料代の精算の時期でもある。そういう支出の多い時期に税金を取られるのは酒屋にとって非常に苦しいと述べています。
そこで福澤は、6月、8月、10月の末に税金を納めるようにしたらどうかと提案しています。6月ですと、4月からぼちぼちお酒が売れていっているという状況ですので、税金を払うのもそれほど苦しくはないだろうというわけです。
ご承知の方も多いとは思いますが、明治政府は酒造に対して税金をたびたび増やしています。明治13(1880)年には、酒造税則によって従来酒を1石造るにつき1円の酒造税をかけていたのを2円に倍増させています。これは販売した利益に対して税金をかけるのではなく、外形にかけるわけです。つまり、とにかく造ったらその量に応じて、売れようが売れまいがそれなりの税を払わないといけないという、酒造業者にとっては厳しいやり方です。
例えば小さな業者で100石造ったとすると、従来は100石造れば100円税金を払っていた。現在の価値で300万円くらいの税金を払っていたことになります。それがこの年に倍になり、600万円くらいの税金を払うという計算になります。なかなか厳しいという感じがしますが、この後、酒造税はもっと上がります。
そういう状況なので、酒造業者たちは明治15(1882)年5月に酒屋会議という、酒造税の増税に反対する集会を大阪で開いています。これは政府によって弾圧され、政府は報復のような形で、その後、酒造税をさらに倍にし、1石につき4円とします。この後もたびたび酒造税は増税されていきます。
福澤は酒造税の増税は国家財政のためには良いのだと言っているわけですが、税の取り方を納得するような形にしなければならないということで、そのあたりに関しては国のやり方にはだいぶ不満を持っていたようです。福澤は酒造業に対して国の財源としては期待をしていた。ただし、国に対して税の取り方を改めよと主張しているわけです。
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