【その他】
【講演録】福澤諭吉と在来産業──酒造業に対する考え方を中心に
2024/07/26
福澤の生きた時代の酒造業
さて、福澤は近世の末から明治の後期まで、ちょうど近世と近代を半々に生きた人ですが、彼の生きた時代の酒造業を数字で見てみます。明治期になると、明治7(1874)年の「府県物産表」を嚆矢に統計が作成されるようになります。下の図はそれ以降、明治末年までの日本の主要な工業生産物の生産額をグラフにしたものです。この時代の主要工業生産物はだいたい醸造品か繊維製品です。この時代、重化学工業は、これらのものにはまったく及ばない程度の生産額しかありません。
この中で清酒の生産のグラフを見ていただくと、明治期の間、ほぼずっと工業製品の生産額の1位を推移しているのがわかります。たまに生糸に抜かれていますが、明治期には酒造業が日本の工業の中では最も主要な産業でした。酒造業は先ほど申しましたように在来産業で、手工業です。明治の終わりくらいになると、部分的に機械を取り入れた生産も一部の蔵では行われますが、ほとんど手工業生産です。福澤は、日本の工業生産物の中で、手工業で造られる清酒がトップを走っていた時代に生きていたわけです。
福澤諭吉と酒
本題からは逸れるのですが、福澤の酒造業に対する考え方を見ていく上で、ある意味、前提になるかもしれませんので、福澤と酒の関わりをごく簡単に追いかけてみます。
まず幼い頃の話ですが、これは『福翁自伝』(以下、岩波文庫版を引用)に載っているので、ご存じの方も多いと思いますが、次のような記述があります。「そもそも私の酒癖は、年齢の次第に成長するに従って飲み覚え、飲み慣れたというでなくして、生れたまま物心の出来た時から自然に数寄(すき)でした。……幼少のころ月代を剃るとき、頭の盆の窪を剃ると痛いから嫌がる。スルト剃ってくれる母が『酒を給(た)べさせるからここを剃らせろ』というその酒が飲みたさばかりに、痛いのを我慢して泣かずに剃らしていたことは幽(かすか)に覚えています。天性の悪癖……その後、……弱冠に至るまで、外になにも法外なことは働かず行状はまず正しい積りでしたが、俗にいう酒に目のない少年で」とのことです。今日では考えられないことですが、少年時代からもう酒が好きだったということです(笑)。そして福澤は日本酒ばかりではなく、ご承知のように海外経験がありますので、海外に行って現地のお酒なども飲んでいます。
『西洋衣食住』という非常に薄い本の中でビールについてこう書いています。「『ビィール』と云ふ酒あり。是は麦酒にて、其味至て苦けれど、胸膈を開く為に妙なり。亦人々の性分に由り、其苦き味を賞翫して飲む人も多し」(『福澤諭吉全集』第2巻所収より引用)。「胸膈を開く」、心を開いて率直に議論をするようなことにビールがいいということですが、今でも例えば学会の時など、本音のところの議論は発表の後の懇親会だとか飲み会の場でなされるということはよくあります。福澤もビールに関してはそういう効用がある飲み物と思っていたようです。
『西洋衣食住』では他の洋酒も紹介しています。「平生の食事には、赤葡萄酒又は『シェリー』酒其外『ポルトワイン』等を用ゆるなれども、式日亦は客を饗応する時などには、『シャンパン』其外種々の美酒を用ゆ。甘き酒(リキウール)又は『ブランデイ』抔云う酒は、食後に小さき『コップ』にて鳥渡(ちょっと)一杯用ゆるものなり。……『ウイスキー』『ブランデイ』など云へる酒は、至て強くして、食事の時に用ひず」と記しています。
そして30代中頃には健康上の理由から節酒に励んで、「とうとう酒欲を征伐して勝利を得た」と宣言するのですが、それでも来客時のテーブルからビール瓶や徳利がなくなることはなかったとのことです。
生涯を通じて酒をよく飲んだ福澤ですが、一方で乱酔することは嫌ったようです。自分は「大酒のくせに酒の上が決して悪くない。酔えばただ大きな声をしてしゃべるばかり、ついぞ人の気になるような嫌がるような根性の悪いことを言ってけんかをしたこともなければ、上戸本性まじめになって議論したこともないから、人にじゃまにされない」といったことを『福翁自伝』の中で書いています。そして晩年は健康を気遣って禁酒したことはよく知られています。
このように晩年を除いて生涯を通じてお酒を常にそばにおき、あるときはそれを飲みながら忌憚のない議論をした。福澤は酒を重用していたのです。
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