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【講演録】福澤諭吉と在来産業──酒造業に対する考え方を中心に

2024/07/26

「ミッズル・カラッス」としての期待

次に、酒を造る人に期待をしたという面が福澤にはありました。当時、酒を造っていた人の典型的な例は、豪農クラスの人たちです。こういう豪農の人たち、これを福澤は「ミッズル・カラッス(ミドルクラス)」、つまり中産階級とみなしてこの人たちに日本の近代化を期待するという考えを持っていました。こういう人たちの経済力と知力、教養が日本の政治に生かされるべきであるというわけです。

これに関しては、金原左門先生がご著書『相模の美酒と福澤諭吉』で力説しておられますので、詳しくはそちらに譲りますが、豪農である酒造家の子弟のかなり多くが慶應義塾に来ています。福澤は全国の豪農を訪ね回って酒を酌み交わし、自分の教えを説くというようなことをしています。

それから福澤は明治16年7月12日、13日付の『時事新報』社説「酒造業ヲ保護スヘシ」の中で「贋造、模製、密売、脱税といった奸邪から善良なる酒造業者を保護せよ」ということを述べています。「嘗テ贋造模製ヲ企テタル者ナキハ何ソヤ……法律ノ保護ヲ受ケタルニ由ル……伊丹ノ酒造ハ京都近衛家ノ保護スル所ニシテ酒樽ノ外包即チ筵ノ表面ニ於テ劒菱又は白雪等ノ酒銘ヲ顕ハシ其上(近衛)ノ二字ヲ烙印スルヲ法トス……維新以後此等ノ旧制一旦廃止トナリ……」。兵庫県の伊丹は領主が近衛家でした。その近衛家が旧領主時代、すなわち近世の間は伊丹の酒造を保護していたということです。だから明治維新前は贋造や模製というものがなかった。維新後になって株仲間などの組合が解散させられて営業は自由にはなったのですが、逆にそれらの弊害も出てきたわけです。

「劒菱」「白雪」と具体的な銘柄が出てきます。「劒菱」は、現在は灘の酒になっていますが、それは昭和に入ってからのことで、もともとは伊丹の酒でした。「白雪」を造る小西酒造は今でも伊丹で健在です。毎年2月に蔵まつりという催しをやっていて、地元の人たちにお酒をふるまっています。そこでの今年の2月の講演会では、私が日本の醸造業の歴史に関するお話をしてきました。小西酒造は江戸時代は江戸への販売が主だったようですが、今は地元との結びつきも強く、地元から愛されているということがよくわかる会社です。

さて、このように福澤は維新政府の政策、営業の自由はいいけれど、逆にそのことで混乱も生じ、善良な酒造業者が困ったことになっているとしています。そして「欧米諸洲ニ行ハルゝ専売免許商標条例ノ制ニ倣ヒ適当ナル法律ヲ設ケテ善良ヲ保護シ」、欧米のような商標条例を作るべきだと主張しています。

そこから先ほどご紹介した「造酒ノ有様ヲ見ルニ今日既ニ屈竟ノ税源」に続き、最後にこう言います。「ナレバ該営業ノ保護ハ実ニ一日モ猶予スベカラザル」。営業の保護は1日も猶予できないと。その後、明治17(1884)年になって、商標条例の制定が実現しました。

日本の「経験」と西洋の科学の融合

福澤の酒造業に対する考え方としてさらに、日本の経験と西洋の科学の融合を酒造業に対して求めていることが挙げられます。日本の酒造業は経験に基づいてずっとやってきた。しかし、それだけでは駄目だというわけです。この産業も西洋の科学的な知識や考え方を取り入れてやっていかないといけないと説いています。

再び先に挙げた尾州知多郡の酒造業者盛田久左衛門の事例ですが、『時事小言』で、尾州知多郡の「酒造法近年大ニ進歩、其酒ノ品格ハ灘伊丹等ノ醸造ヲ除テ天下第一流」と評価しております。これに対して「五六十年以前マデハ純然タル田舎醸ノ流儀」であったと述べます。この田舎醸というのは先ほど申し上げた濃厚でドロッとしたお酒造りということですが、それが、酒造法が進歩し、すっきりと洗練されたお酒になった。それには盛田久左衛門の酒造改革があったということです。

そこから先ほどご紹介した、旧法で酒造を行うと政府の歳入という点から見て損になっていたという話になるのですが、問題はその次のところです。「此法式ノ改革ヲ以テ国益ヲ為シタルノ事実ハ誠ニ明白ナレトモ其改革ヲ施スノ際ニ一句ノ論理ヲ用ヒズ、一条ノ原則ヲ知ラズ。醸造ヲ改革スルトテ何ガ為ニ米ヲ精白ニスルヤ、糠ニハ何等ノ性質アルガ故ニ腐敗ヲ促スヤ……云々ト質問スレバ、漠然トシテ答ルコト能ハズ。其ノ偶中ナルヤ明カナリ」と述べています。

このあたりは当時の日本の酒造業の在り方に対して厳しい注文を付けているところです。この方式の改革をもって国益になったのは明白だけど、その改革には論理を用いたわけではない。原理を知ってそうしたわけではないというわけです。

何のために米を精白にするのか、糠にはどういう性質があるために腐敗が生ずるのかと福澤は問うた。精白というのは糠を取り除くわけですから、糠がなければ腐敗しにくい。しかし、なぜそうなるかについては「漠然トシテ答ルコト能ハズ」と。酒造業者はそういうことを理屈で知っているわけではない、たまたまいいものができたに過ぎないというわけです。

なので、「必ズヤ爰(ここ)ニ学問ノ主義ヲ活用シテ……化学ノ原則ニ照ラシ恰モ酒造ノ事ヲ其規則中ニ束縛シテ始テ満足ス可キナリ」と続けます。必ず学問の主義を活用して化学の原則に照らして酒造のことを化学の規則、原則、法則に当てはめて初めて満足すべきであると述べています。

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