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【小特集・関東大震災と慶應義塾】関東大震災と福澤諭吉

2023/08/21

図書館建築の精神

1912年、慶應義塾創立50年記念の寄付金で建てられた図書館は、藤本寿吉の旧塾監局以来、ほぼ四半世紀ぶりの慶應義塾の煉瓦建築となった。濃尾地震における福澤の指摘が意識されていたかはともかく、義塾関係者は、最新最良の技術を研究する学者肌の曾禰達蔵とともに、構造の研究に余念が無かった。初代図書館監督(館長)田中一貞の表現を借りれば「定められたるスペイスを与へられ、定められたる金を与へられ、其範囲内にてベストを尽くさんと心掛けた」のであった(本誌1912年6月号)。

構造としては、一部に鉄筋コンクリートや鉄骨を用いた煉瓦造とし、この時、特に関係者が異常なる情熱を燃やしたのは、防火である。書庫は地下を含めて6層になっており、各階は中央に廊下と階段、両側に書架を置く部屋があり、分厚い防火壁と鉄扉で仕切られている。さらに窓にはガラスの外に防火シャッターを設置してあり、最上階の高窓にはワイヤー入りのガラスを使用した。隣接の建物が木造だっただけに、学問の根幹である書籍を守るために、施主と設計者が渾身の情熱を注いだことが伝わってくる。

田中は「技師と私共とは非常に密接な関係でありまして、遠慮なく討究して拵(こしら)えたものであります、此点に於て大変幸福で技師も非常に骨を折りまして是だけのものが出来たのであります」と誇り、さらに「是だけ防火をやって居る所は外国にもあまりないと信じます」とまで書いている。

私立として予算の制約があるとはいえ、最高の技術を用いようという意欲には並々ならぬものがあった。

関東大震災の被害

1923年9月1日の関東大震災で、慶應義塾は被害を免れることは出来なかった。藤本寿吉の設計した旧塾監局は翌年1月の余震を経て使用不能となり取り壊し、図書館も各所に亀裂を生じ、特に八角塔は取り壊しの上で再建せざるを得なくなった。

1915年竣工の大講堂は、「慶應座」とも呼ばれ、やはり塾生の誇りとなる美しい外観の鉄骨煉瓦造の建築であったが、ファサード部分の損傷が激しく、正面の外観を全面的に変更して修復が施される。そしてこの時、慶應義塾は史上初めて1口50円の「塾債」を30万円募集したのである(別掲編集部記事参照)。1920年竣工の慶應義塾初の鉄筋コンクリート造校舎は被害を免れ、その他全ての木造校舎の損傷は軽微だった。

慶應義塾にとっての幸いは、火災に巻き込まれなかったことである。図書館の徹底した防火は、本領発揮とは行かずに済んだが、その安心感は大きなものだったであろう。本郷の東京帝国大学の図書館が3日間燃え続けて全焼し、貴重な一次資料を含む70万冊の蔵書を失ったことは日本の学界に大きな損失となった。三田キャンパス周辺は火災の発生が少なく、震災当日より9月末まで教室を開放し、多数の罹災者を受け入れた。

林毅陸という人

ここで、震災後最初の『三田評論』(1923年11月号)巻頭に掲げられた別掲の林毅陸(はやしきろく)(1872-1950)の論説「大震災所感」に注目したい。林はこの一文を草した直後に塾長に就任し、震災復興、日吉キャンパス建設へと大きく慶應義塾を発展させる舵取りをした人物である。彼は1895年に大学部文学科を卒業してすぐに義塾教員となったが、血気盛んな若者で、福澤の元に出入りして「慶應義塾かくあるべし」と、義塾の改革を盛んに主張したという。福澤に面白いと思われたのか、彼はすぐに普通部の主任(普通部長)に抜擢された。「僅か二十七歳に達したばかりの私は……如何にも生意気に見へたであらうし、一部には不快に感じた人もあったことであらう。いまになって思へば、聊(いささ)か冷汗を感ぜざるを得ない」(『生立の記』)と、後に書いている。

林毅陸(福澤研究センター蔵)

彼はまた、19世紀が終わり20世紀を迎える大晦日の夜に慶應義塾が開催した「世紀送迎会」において、「逝けよ十九世紀」と題する、慶應義塾史上の伝説的な演説を朗々となし、聴衆を魅了したことでも知られる。

思ふに十九世紀の文明の主なる職務は中世的の迷信と専制とを打破し、兼て人間物質上の福利を増進するに在りたり。而して人権の発達より人道の発揮に移り、人民の自治より人類の共和に進み、物質の快楽より霊精の幸福に向ふは、正に今後の文明の執るべき進路ならん。然り、吾人は今敢て多言せざるべし。逝けよ十九世紀、汝は能く其の職務を尽したり。来れ二十世紀、汝の前途は洋々たり。

このように20世紀の来訪を明るく描いたかと思えば、最後に厳しい試練の時代としての新世紀における義塾の責任を説いて締めくくっている。

顧みれば我日本帝国は十九世紀の後半期以来、孜々(しし)として各種の改革に努め、史上に類ひなき長足の進歩を為したりと雖(いえども)、猶(なお)前世紀の余弊遺物は決して少なからず、旧思想、旧制度、旧習慣、紛々として朽骨腐肉の厭ふ可き者、到る所に堆(うずたか)し。新文明の発達を図るには、先づ此汚物の一掃より着手せざる可らず。諸君、慶應義塾は由来文明軍の勇士を以て自任す。願くば茲に十九世紀を送りて二十世紀の新天地を迎ふるに当り、我党の抱負をして特に明赫雄大ならしめよ。

林は、これからいよいよ「旧思想、旧制度、旧習慣」と闘わねばならない中で、人智の文明を重視する我々の役割はますます重いと、その責任を自覚するよう訴えたのである。この時、林は満28歳。まもなく、私立としては当時唯一の海外派遣留学生の制度で欧州留学し、外交史研究のパイオニアとなっていく。

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