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【小特集・関東大震災と慶應義塾】関東大震災と福澤諭吉

2023/08/21

  • 都倉 武之(とくら たけゆき)

    慶應義塾福澤研究センター准教授

現在、三田の慶應義塾史展示館において企画展「曾禰中條建築事務所と慶應義塾」を開催している。曾禰中條建築事務所とは、明治末から昭和10年代にかけて、慶應義塾の建築を実に30棟以上手がけた設計事務所であり、その代表作とされるのが、事務所開設間もない1912年竣工の慶應義塾図書館(旧館)、あの赤煉瓦の壮麗なゴシック建築である。日本の近代建築の父ジョサイア・コンドルの1期生として学んだ曾禰達蔵(そねたつぞう)と、曾禰の同期である辰野金吾に学んだ中條精一郎(ちゅうじょうせいいちろう)が共同主宰した、戦前日本最大最良の民間設計事務所とも呼ばれた。今回の展覧会は、この事務所と義塾との間に、なぜこれほど長く深い歴史が刻まれたのかを考える試みで、関東大震災を境として前後期に分けて展示を行う。

福澤と建築

展示準備に当たり、「福澤諭吉と建築」について考えてみた。福澤は建築に関心があったのだろうか。私の到達した答えはYESだ。1866年刊行の『西洋事情』において、福澤は産業革命で激変する世界を興味深い絵で表している。地球の上を電信線が張り巡らされ、その上を擬人化された情報が走っている。その下部に描かれるのは、蒸気機関の発明で発達した利器で、蒸気機関車、蒸気船、気球、そして「高楼」が聳えている。産業革命が建築物の規模や質を飛躍的に発展させ、人間の可能性を広げる──それがこの絵に高楼が描き込まれている意味であるとすれば、福澤は建築技術の進歩に関心を寄せていたことになる。

実際福澤の周辺には建築にかかわる技術者がたくさんいる。福澤の大親友宇都宮三郎は、建築に不可欠なポルトランドセメントや耐火煉瓦の国産化に成功した人物で、その弟子にあたる中村貞吉は福澤の長女里の夫となった。貞吉と工部大学校(東京大学工学部の前身の1つ)で専攻違いの同期だったのが曾禰達蔵で、宇都宮の伝記に回想談を寄せている。宇都宮の妻と福澤の長男一太郎の妻は姉妹で、その間の男兄弟が建築家の大澤三之助だ。

もっとも決定的なのは藤本寿吉(ふじもとじゅきち)の存在だ。彼は中津出身の福澤の従兄藤本元岱の子で、福澤の元に身を寄せ、慶應義塾を経て工部大学校でコンドルの2期生となった建築家なのである。慶應義塾の最初の煉瓦建築であった旧塾監局(1887年)などを設計したが、残念ながら若くして世を去ってしまった。その人のことを伝える数少ない回想の1つを1937年に本誌に残しているのがまた、曾禰達蔵である。

「地震は建築法の大試験」

近代日本の建築法に大きな画期を与えたのは、1891年10月28日の濃尾地震であった。マグニチュード8.0と推定される、この直下型地震によって、岐阜愛知方面の煉瓦建築が軒並み倒壊した。その一方で名古屋城は倒壊を免れた。被害の全容把握もままならない時期に、福澤は自ら経営していた新聞『時事新報』で社説「地震は建築法の大試験」を掲載した(同年11月1日付)。

福澤諭吉自筆原稿「地震ハ建築法の大試験」 (福澤研究センター蔵)

福澤はこの社説で建築技術について考察し、日本では煉瓦の使用を始めてまだ日が浅いので、技師も不案内だったのだろうか、外見のみ西洋風でも「内実の建築法」を粗略にしたのではないか。あるいは「東西の地質気候の同じからざるが為め」であろうか、などと論じる。そして日本に適していることが証明されるまで、煉瓦建築は性能の「試験」期間であると考えることを勧め、「貴重なる物」の収蔵や「住居にして其中に眠食するが如き」は避けて「粗大品」を収める土蔵納屋程度の使用に留めることを提案、「東西の天地地質同じからずして西洋造の家に不都合なるは、建築技師が西洋法に従て樋(とい)を掛れば、日本の雨は西洋流に降らずして水の溢(あふ)るゝあり」などと、得意の比喩を使って、単に西洋建築を形だけ模倣することに警鐘を鳴らし、「我輩は今回の震災を我建築法の大試験として官民共に苟(いやしく)も新築の事あるときは改めて一層の注意あらんことを祈るのみ」と結んでいる。

すなわち導入から日の浅い西洋建築技術が、日本に適するか否か、科学的に冷静に見極める必要を指摘している。天災を人智を超えたものとして嘆き立ち止まるのではなく、そこから学び、進歩しようとするScienceとしての「実学」の精神の発露と言い換えてもよいであろう。

この福澤の言説が効いたのか、はたまた単に予算上の問題か(おそらくは後者であろうが)、慶應義塾は以後もっぱら木造建築を建て続ける。福澤没後、三菱の大番頭と称される実業家であり、慶應義塾評議員会議長でもあった荘田(しょうだ)平五郎の下で、「一丁倫敦(いっちょうロンドン)」とよばれた丸ノ内のオフィス街開発に参加していた曾禰達蔵や保岡勝也が慶應義塾の建築を担当するようになってからも、木造建築の時代が続く。

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