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【講演録】近代日本の翻訳文化と福澤諭吉──『学問のすゝめ』150年を記念して

2023/04/21

明治初期の翻訳ブームと翻訳語の定着

言語学から見ても、明治初期はまさに激動の時代です。翻訳語は激動の時代だからこそ、すぐに定着したわけではありません。主に1870年代は、同じ外国語に対して、人によって、または作品によって複数の異なる翻訳語が使われていました。

まずは幕末維新のころに福澤諭吉の『西洋事情』や西周の『百学連環』のような作品が現れ、さまざまな翻訳語が認知され始めます。その次に1870年代に文明開化の時代と近代的な教育制度を定めた「学制」が整備されたことと相まって、明治初期の翻訳ブームが起こります。中国語やオランダ語の他に英語やフランス語、ドイツ語、ロシア語などの文献が多種多様な人たちによって試行錯誤で翻訳され、多種多様な結果をもたらします。翻訳が行われていたのは国の機関だった文部省や蕃書調所(後に洋書調所、開成所)、全国各地の学校や私塾、民間の出版社、それから個人によるプロジェクトもいろいろあったそうです。

それほどたくさんの翻訳が行われていた中で様々な翻訳語が統一されて定着したのは、1881年に井上哲次郎らの『哲学字彙』という辞書が出版されてからだと思われます。例えばsocietyは、早くも1877年頃までにその訳語「社会」が市民権を得るが、それまでは数え切れないほど複数の異なる日本語が充てられていた事例として代表的でしょう。当時の外国語辞書で調べますと、仲間、連中、会社、社中、社友、組、組合などが出てきます。私が調べた中では阿部泰蔵を含めた慶應義塾出身の翻訳者たちは「社中」が多いです。societyには、人間社会の概念に先行する団体や結社など組織の意味があることは重要です。

ベストセラーの訳書『西国立志編』で知られていた中村正直(敬宇(けいう))は、1872年にジョン・スチュアート・ミルの『自由論(On Liberty)』を『自由之理』として翻訳し、その中でsocietyを様々な日本語に訳していたようです。政府・仲間連中・人民の会社・会社・世俗・仲間・総体仲間・仲間社会・総体人民などです。興味深いことに、割注で「即ち政府」などと明記した場合もあります。

一方、福澤諭吉は、皆さまもご存じのように、最初はsocietyの訳語に「人間交際(じんかんこうさい)」という語を使っていました。『西洋事情』の中では人間交際の他に人間の交わりという表現も見られますが、『学問のすゝめ』では人間交際か人間の交際に統一されます。初編から17編までで25回ぐらい出てきます。特に『学問のすゝめ』17編「人望論」は人間交際についてです。その結びの言葉は、少し表現を分かりやすくすると、こういうメッセージになります。「世界の土地は広く人間交際は多くて様々ですから、4~5匹の鮒が井戸の中で何もせずに過ごしているのとはちょっと趣が違う。人でありながら人を毛嫌いすることは良くない」。福澤先生にとって人間関係は1つの学問で、とても大事だという考え方が、現在もこの慶應義塾で立派に引き継がれていることは言うまでもありません。

福澤諭吉にとっての「自由」

それではあらためて、福澤先生が広めた「自由」についてお話ししたいと思います。「自由」という言葉は、本来は漢語として自分の思う通りという意味で、江戸時代まではわがままや自分勝手といった否定的なニュアンスで使われることが多かったそうです。それでも江戸末期の一部の辞書や翻訳本では、西洋語のlibertyやfreedomに対するその場しのぎの訳語として採用されていました。これを受けて福澤諭吉は早い段階から新しい意味を定着させようと決心し、幕末から『西洋事情』の中で使い始め、複数回にわたって「リベルチ」を訳す難しさについて論じています。

『学問のすゝめ』初編の中では福澤諭吉の自由論が丁寧に展開されていますので、皆さんも、今日家に帰られたら、あらためてお読みいただければと思います。私はここでは『学問のすゝめ』の1年前に執筆された「中津留別之書」での自由の説明に触れておきたいと思います。

福澤は外国語を新しい日本語に翻訳する際は文化的な違いを考慮して言葉の意味を丁寧に説明していきます。翻訳語としての「自由」は新しい日本語ですので、彼は以下のように説いていきます。

古来、支那、日本人のあまり心付(こころづか)ざることなれども、人間の天性に自主自由という道あり。一(ひ)と口(くち)に自由といえば我儘のように聞(きこゆ)れども、決して然らず。自由とは他人の妨(さまたげ)を為さずして我心のまゝに事を行うの義なり。父子、君臣、夫婦、朋友、互に相妨げずして各(おのおの)その持前の心を自由自在に行われしめ、我心を以て他人の身体を制せず、各その一身の独立を為さしむるときは、人の天然持前の性は正しきゆえ、悪しき方へは赴かざるものなり。

これが福澤諭吉によって日本語だけで自分の言葉で自分の考え方として完全にまとめられた最初の自由の定義と思われます。「中津留別之書」は福澤が36歳の時に中津の古い実家で書いて、翌年の『学問のすゝめ』初編の中で「自由と我儘との界(さかい)は、他人の妨を為すと為さゞるとの間にあり」と主張して、絶対的な自由ではなく制限のある自由として、西洋語のliberty を日本人に伝えようとした試みに通じます。

ウェーランドの影響

「中津留別之書」『学問のすゝめ』ともに、アメリカ人経済学者フランシス・ウェーランドからの影響が認められています。ウェーランドはプロテスタント系の牧師でもあり、19世紀のアメリカでキリスト教の教義に基づく倫理的な観点から奴隷制度の廃止や女性の地位の向上などを求めていました。『学問のすゝめ』第8編で「モラルサイヤンス」として紹介されている出典の本は、1835年にボストンで出版されたThe Elements of Moral Science(『道徳科学要論』)という大学生向けの教科書です。moralにscienceが付いているのは道徳より倫理に近い意味になるからです。簡単に言えば、アメリカの民主主義の理念が説明されているテキストです。

この本の内容が『学問のすゝめ』の第2、6、7、8編の直接の論拠になっていることは昔から板倉卓造や伊藤正雄の研究などで証明されています。福澤の文章の中にウェーランドの原典を直訳または意訳したと思われるところが多くあります。『学問のすゝめ』の中で提唱されている自由論、天賦人権、人間の平等、夫婦あるいは男女の平等、親子の相互的な関係、社会契約、国家同士の対等な関係といった思想は、主にウェーランドから学んだと言えるでしょう。もちろん福澤はそのような思想を咀嚼して自分の考え方と結び付けて、日本の社会的な実情に合わせて展開させていくわけです。ただのパクリではありません。

そのために、父子、君臣、夫婦、朋友などの五倫や、天理人道といった儒教的な思想に訴えて、翻訳と創作のはざまで日本人にとって分かりやすい形で、西洋文明の思想を導入しようとしたと評価することができます。

『学問のすゝめ』初編刊行の1年後の1873年から、日本では「学制」が施行され、史上初の近代的な教育制度が始まります。学区などの制度をフランスから取り入れ、教科書はほとんどアメリカやイギリスから取り寄せ、それらを日本語に訳しました。今は翻訳教科書という名前で知られています。その時、修身という科目がありました。今では修身と聞きますと、戦前の軍国主義的な国民道徳の教育を連想すると思いますが、文明開化と重なる「学制」の時代、1870年代の修身はその真逆で、欧米諸国から取り入れられた国際的な倫理の勉強というものでした。現在の教科でいいますと公民、現代社会、倫理、政治・経済などの内容に近かったのです。

主に19世紀のアメリカ民主主義と資本主義、社会契約、三権分立、徴税、議会制、私有財産、労働契約、売買契約などを日本の小学生たちに教えようとしたのです。もちろんその中には正しい行動、嘘をつかない、物を盗まないなどといった道徳や行儀に関することも含まれていました。

これらは日本が文明国になるために必要だった一種の知識でした。ただし、アメリカの教科書の全てはキリスト教に基づいていました。当時の日本にとって、つい最近まで禁止されていた異国の宗教の、文中のあらゆるところに出てくるGod(神)やBible(聖書)などへの言及は不要でした。ところが、そういうところをむやみに削除すると前後関係が分からなくなってしまい話がつながらない。そこで翻訳者たちはどうしたのでしょう。

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