三田評論ONLINE

【その他】
【新塾長対談】「慶應義塾の目的」の実践へ向けて

2021/07/07

  • 国谷 裕子(くにや ひろこ)

    慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科特任教授。米ブラウン大学卒業。1989 年からNHK衛星放送「ワールドニュース」キャスター、93年から23年間、NHK総合テレビ「クローズアップ現代」キャスターを務める。2016 年から、SDGs(持続可能な開発目標)の取材・啓発を中心に活動を行っている。東京藝術大学理事、自然エネルギー財団理事、国連・食糧農業機関(FAO)親善大使等を務める。

  • 伊藤 公平(いとう こうへい)

    1965年生まれ。1989年慶應義塾大学理工学部計測工学科卒業。94年カリフォルニア大学バークレー校工学部 Ph.D取得。助手、専任講師、助教授を経て2007年慶應義塾大学理工学部教授。17年~19年同理工学部長・理工学研究科委員長。慶應義塾評議員、日本学術会議会員。本年5月28日慶應義塾長に就任。専門は固体物理、量子コンピュータ等。

「慶應義塾の目的」

国谷 この度は塾長へのご就任おめでとうございます。

伊藤 ありがとうございます。

国谷 塾長というのは、幼稚舎から大学・大学院まで見ていかれるわけです。大学の学長でもあり、経営面での理事長でもあると。これだけ多くのことを兼ねているポジションだとは知りませんでした。大変な重責です。

伊藤さんは、幼い頃から慶應が目指すことをいわば体の中に浸透させて育ってこられ、「生粋の慶應人」と表現されている方もいらっしゃいます。

伊藤 小学校から大学・大学院までを一貫する教育機関というのは世界でも珍しい存在です。幼稚舎・横浜初等部で好きなことに取り組んできた生徒が、中学に進学すると受験勉強で鍛えられた生徒に出会う。このように、余裕を持って取り組んできた人と、勉強をしっかりした人たちが合流することを繰り返して大学までいく。この伝統を大切にしながらも、社会を先導するという新しさを常に一貫教育が持っていなければと思っています。

これからの社会は10年、20年で明らかに変わっていき、慶應義塾の目標はその変化を先導することです。「全社会の先導者たらんことを欲するものなり」という「慶應義塾の目的」の結びです。この「慶應義塾の目的」というのは福澤諭吉先生が1896(明治29)年に行った演説の結びの言葉で、その部分を福澤先生が書幅にしたわけですね。

「慶應義塾は単に一所の学塾に自から甘んずるを得ず、其目的は我日本国中に於ける気品の泉源、智徳の模範たらんことを期し、之を実際にしては居家、処世、立国の本旨を明にして、之を口に言うのみにあらず、躬行実践以て全社会の先導者たらんことを欲するものなり」

慶應ファミリーが大好きな「気品の泉源、智徳の模範」が目立ちますが、慶應義塾の目的の結論は全社会を先導するということです。その目的のためには、世界中の人と一緒に取り組まなければなりませんし、正しい仲間と一緒に物事を進めていかなければならない。先導者には当然のことながら義務が伴います。ただ自分たちが良くなればいいわけではなく、本当の意味で、いろいろな形でいろいろな人と共に取り組んでいくことで、良い社会を実現しなければなりません。

慶應義塾の仲間は皆、いろいろな目的意識を持って一生懸命活動することによって、考え方はたとえ違っても、何かを先導しよう、社会を良くしようという力が一体となって、全体として先導者になるのだと思うのです。もしかすると反対方向に引っ張る力もあるかもしれない。でもその反作用にも意味があり、その中であくまで民主的に物事を良くしていこうという考え方です。

国谷さんがおっしゃったように、塾長というのは大学の学長でもあり法人の理事長でもあるのですが、考え方としてはどちらかというと奉仕者であって、リーダーシップというよりは、皆がよく働ける環境をつくり、この「慶應義塾の目的」を実践できるようにしてゆく立場なのだと私は理解しています。

今、民主主義の危機が言われていますが、大学というのは理想を追求するところなので、民主的な考え方で物事を良くできるということを示していきたいと思っています。

国谷 それは大変なミッションですね。全社会の先導者になろうという慶應義塾をまさに先導される。長谷山彰塾長からバトンを受け継がれるわけですが、今どのような思いでいらっしゃいますか。

伊藤 もう少し目標が低い大学だったら楽だっただろうなと思います(笑)。しかし、今さらその目的を下げることはできません。ですから、その目的を達成するために、皆で一生懸命やりましょうと張り切っていきたいと思います。聖書やコーランといった聖典があるようなものですね。この目的があるんだからやりましょうと、そのことによって皆、納得してやっていけるのではないかと思っています。

国谷 なぜ今、塾長になろうと思われたのですか。

伊藤 制度としては明確な立候補制ではないのです。他薦によって候補者が選ばれ、投票が行われ、さらには銓衡委員会というものがあり、そこで選定され、評議員会で承認されます。だから、候補者の1人になったときから覚悟を決めて、選ばれたらどうしようかと準備を進めました。真剣に考えないと、選ばれてからスタートまで1カ月しかないですから。

量子コンピュータの研究者として

国谷 伊藤さんは量子コンピュータがご専門でいらっしゃいます。量子コンピュータはスーパーコンピュータの次世代として非常に注目されています。その量子コンピュータの分野を伊藤さんはリードしてこられた。今、アメリカや中国を筆頭に世界で大競争が起きている中、学問、研究の時間を割いて、塾長になられることには葛藤もあったかと思います。

伊藤 量子コンピュータの研究は1998年から始めました。もう23年前のことですが、その頃から量子コンピュータ研究に取り組んだ人は限られています。ちょうど、ごく一部で量子コンピュータが話題になり、そこに目をつけた欧米の物理学者仲間が研究を始めたのです。上手いくはずがないとも言われましたが、量子力学を使って計算ができるというのは私たち物理学者の夢だと思いました。

普通の計算機では0か1の二進数を用いて計算するのですが、量子力学の0でもあり1でもあるという不確定性を使って計算するのが量子コンピュータで、今のコンピュータでは実行不可能とされる問題の一部が計算できるようになります。

量子コンピュータにつながる基礎研究を積み重ねると、学生たちも興味を持って「これは面白い」と参加してくれるようになりました。そうやって論文をどんどん書いていくと、世界の舞台で先駆的だと注目され、いろいろな研究者と国境を超えてつながりました。そして自分の研究者としての位置付けが、基礎から応用にまで拡がっていきました。

あるところまでいくと、インテルといった半導体大手が私たちの基礎研究成果などを元に量子コンピュータを開発するようになりました。大企業が装置をつくってくれるなら次はソフトだということで、3年半前に量子計算ソフトウェアとアルゴリズムを研究する「慶應義塾大学量子コンピューティングセンター」をつくり、慶應義塾のエース教員にセンター長や副センター長を任せ、私はマネージャーとして米IBMの量子コンピュータがアジアで初めて使える環境を整えました。するといろいろな日本企業がセンターに参加するようになり、企業メンバーも含めて、皆で研究ができるようになりました。

このように、そのときにやらなければいけないことを積み重ねてきた結果として、義塾の量子コンピューティングセンターが発展し、今や次世代が立派に世界をリードしていて、そこに私も一人の研究者として参加しています。この次はということで、私にとっては、さらなる次世代のための仕組みづくりに塾長として励むタイミングだと思っています。

国谷 いち早く量子力学の分野の可能性に着目され、世界の最先端のコミュニティの中にしっかりと根付いていらっしゃるので、それほど研究から自分は離れてしまうという恐れはないということですね。

量子力学はとても難しくて、量子コンピュータは6億年かかる計算が3分でできるといったことぐらいしか、恥ずかしながらわかりません(笑)。伊藤さんの見えている未来、つまり量子コンピュータが当たり前になって社会に広がっていくことで、社会は何が一番変わるのですか。

伊藤 われわれ自身、量子コンピュータが実現すると思っていたかと言えば、正直言ってわかりませんでした。しかし世界トップの研究者仲間とはすごいもので、競争と協調のサイクルの中で、IBMやグーグルが装置をつくってしまいました。一緒に切磋琢磨してきたわれわれにとっては「ついにこの日が来たのか」という感慨は格別で、生きているうちにこの日が来たことが夢のようでした。

では、これでパラダイムシフトが起きるかと言われるとまだわからない。でも慶應義塾も含めて世界トップが切磋琢磨しているので期待していてください。量子コンピュータによって良いこともたくさんできるようになりますが、計算機の大進歩は社会インフラにも影響を及ぼします。例えばインターネットのセキュリティなどが破られてしまう心配も挙げられる思います。

国谷 破られてしまう?

伊藤 つまり、暗号が解けてしまうんです。例えば一部の国は、今いろいろなところからインターネット上にファイルとしてある国の機密などを集めています。そのファイルは暗号がかかっているから今は開けませんが、今から20年後に量子コンピュータで開けるようになると、遡って全部見られるようになってしまうのです。

普通の計算機では解けないという前提でできている暗号が解けるようになってしまうので、量子コンピュータは悪いやつ、と言われることもある。しかし、これはただ単に計算機の発展であって、計算機が発展すれば今まで解けなかった問題が解けるようになるのは当たり前です。科学技術の発展によってもたらされる不都合を見越して回避するためにも最先端にいることが必要です。

カテゴリ
三田評論のコーナー

本誌を購入する

関連コンテンツ

最新記事