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【特別鼎談】コロナ禍の不安とともに

2020/11/13

「自粛」が生み出した複雑な問題

神庭 おっしゃる通りだと思います。相手を感染させてしまって、場合によっては死に追いやるのではないかという不安を抱える点が、普通の災害と大きく違うところです。しかも身近な人になればなるほど距離が近くなるので、相手を感染させるリスクが高くなる。

日本では「自粛」と強く言ってきた。それにより、「感染することも、させることも許さない」と言われているように感じた方が多かったのではないでしょうか。

緊急事態宣言解除後に、歓楽街での接待を伴う夜の飲食店での感染が盛んに指摘されていました。そういうところに行く一部の者が感染をまき散らしている。けしからん者たちだ、という非難が殺到したようです。

今、僕は大学を退職後、信州の田舎に暮らして、東京でも仕事をする二重生活をしているんですが、地方では、感染者の数が非常に少ない。

東京だと、毎日100人、200人の感染者が発生したという話を聞くと、「またか。引き続き気をつけるか」となりますけれど、地方に行くと、どこの市町村で何人が陽性となったと発表されます。つまり、どこの誰だか分かってしまうことがあります。

そうなると、感染者を出した家に石が投げられたり、張り紙がされたりして、その地域に住みづらくなり、家族で夜逃げしたという話も聞いています。人々の抱く不安が、「感染者はけしからんことをしたのではないか」という偏見と非難を巻き起こしてしまう。

コロナに限らず、性暴力にしてもそうですが、被害者にも落ち度があったのではないかと見なしがちです。

北山さんがおっしゃったように、同調圧力の強い日本社会で「自粛しろ」と言うことは、感染拡大に有効に働く一方、被災者の責任論を生む、見過ごせない問題があるなと考えています。

北山 神庭さんがそこまでおっしゃってくださった。これは、その病気にかかったというだけではなくて、多くが同じような生活をし、同じような顔をして、同じ言語を話して、同じ文化を共有しているところで、一人変わった者が生じると、その者を、もう異類視して、排除するという日本独特の同類幻想があると思うんです。

それが、今回の「PCR検査をして隔離」という言葉に感じられたんですが、一方、それは感染予防には有効なんですよね。だから、おとなしく自分の中の異類の部分を抑えている。夜の街に行きたいという衝動を。それで、行っている連中を異類視する。この仕組みが非常に有効に機能しているんだけれど、同時に人を不幸に追いやっている。この二面性を自覚したいと思うし、語り合いたいなと思うんですよね。

私が専門にしている精神分析学では、むしろこういった感じ方に蓋をするのではなくて、意識していこうという発想を持っています。意識したほうが対応がしやすいし考えやすい。皆で考えると、いい知恵が出てくるかもしれない。しかし、私たちは往々にしてそれを考えないようにしてしまう。つまり、タブーの心理が働くのです。

だから、今日は可能ならそういったことを語り合いたいなと思って、ここにいる次第なんですよ。

「ふるいに掛ける、掛けられる」自分

森 先ほど、共通の不安というお話をしましたが、今、北山さんがお話ししてくださった「精神分析における感じ方を意識する」ことと非常につながっていると思う体験をしました。それは、人と直接話すことによって、自分が不安を感じていたのだな、と深く気づかされる出来事でした。

この4月から、心理療法で対面での面接がままならない状況になりました。それでメールで代行してやり取りしていた方がいたのですが、3カ月ぐらいたってようやく、対面での再会がかないました。でも、感染状況はまだ注意が必要でしたので、「この先どうしましょうか」とうかがったら、その方が躊躇なく「来週も来ます」と。「ここは自分を取り戻せる場所だから」とおっしゃった。私はその時、ハッとしました。

その方は公共交通機関をいくつも利用しながらいらっしゃるので、コロナ感染を恐れて、またメールのやり取りを希望されるのではないかと思っていたのです。ところが、実は私自身のほうが臆病になっていたということに気づいたのです。

つまり、相手の方が不安や恐怖を持っておられるだろうと思い、慮ったような態度を取ったのですが、自分の中ではあまり強く自覚していなかった不安や恐怖に気づいたのです。それは、自分の中にあったのだと、実感した瞬間でした。

人と直接、関わり合うことによって、不安だとか恐怖だとか、なんとなく口にしていたものが、自分の中ではどんなふうに体験されているかがはっきりと自覚されたのですね。

北山 なるほど、よくわかります。

 もう1つ、大学では春学期は全てオンライン授業でしたが、100人ぐらいの応用臨床心理という授業で、1年生から4年生が混ざり合い、4、5人のグループに分かれて、「コロナをめぐって今、体験していること」を自由に話し合い、それをグループごとに発表してもらいました。

すると、キャンパスですれ違って「よっ」と声をかける友達を「よっ友」と言うらしいのですが、そうしたちょっと挨拶を交わすぐらいの友達に全く会わなくなったと言う。オンラインで約束してわざわざ会うのは、この人だからとか、この友達だから、と「ふるいに掛けられた」特別の人たちだけ。今まで少し気遣いしながら会っていた人や、遠ざけたいなと思う人には、会わないですむ世界が生まれたと言うんですね。

でも学生たちは、「ふるいに掛けている自分」というものを振り返って、いろいろなことを感じていました。ふるいに掛けるということは、自分も「ふるいに掛けられている」のかもしれない。それをめぐって、学生間で様々な、とても繊細な言葉のやり取りが生まれました。その中でオンラインではやはり心の交流が失われるという実感も語られていました。

学生たちは、選りすぐりの友達との、ちょっと偏った(?)オンライン交流に「これでいいのかな」と自問しつつ、それを素直に言葉にしている姿が印象深く心に残りました。

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