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【講演録】認めあう社会──福澤諭吉の女性論・家族論に学ぶ

2020/03/24

意識改革と実践

授業をしていて、気になることがあります。「デートDV」という言葉をご存知でしょうか。あまり聞きなれない言葉かもしれません。中学生や高校生を対象に、どういった言葉や行為が相手を傷つけるのか、たとえばデートをしている時に「絶対こっちの方がおいしいから、こっちを食べた方がいいよ」という単純な気持ちが、どこから問題になるのかといったことを、ロールプレイなどを通して学んでいくデートDVに関する授業があります。当たり前のことですが、傷付けるのは男性とは限りません。女性たちも「デートをしたら、男性が支払うのが当然」といった理由のない偏見をもっているわけですので、お互いが学んでいく授業です。

しかし慶應義塾に進学してくる学生で、そうした授業を受けた経験がある人は、私が授業で質問しているだけですから正確に統計をとっているわけではありませんが、1割にも満たないと思います。いわゆる進学校では、重きをおかないのだと思います。しかしこれは学力とは関係がない問題です。そして疑似体験であっても、経験値が意識改革を生むのだと思います。

また授業で多様な家族像を紹介しますが、たとえばトランスジェンダーのご両親を持った子どもについて話した時、慶應義塾だけでなく他の大学でも、実に多くの学生が、親の生き方は認めるべきだと思うが、子どもは親を選ぶことができないのに、生まれた時から好奇の目にさらされてかわいそうだ、いじめの対象になると言います。彼らには、好奇の目を向けるか向けないかは、自分たちが決めるのだという意識がないのです。自分は違う、でもみんなはそういう目で見るという発想は、福澤先生がいう「勇気なきばかもの」と結局は同じだと思います。

そして若い人たちがその意識を変えていくためには、実は上の世代の人びとが自覚的になる必要があるのだと思います。福澤先生は、「徳教は耳より入らずして目より入る」と言います。教えというのは言って聞かせることで身に付くのではなく、手本となる存在を真似るのだと。まだまだ日本では、幼い子どもが見る絵本やアニメ、テレビ番組に登場する女性像、家族像は多様とは言えません。

また価値観は多様です。最近独身の女性たちから、職場で夜勤や休日勤務の必要が生じると、必ず自分に回ってくる、育児がないのだから当然とされるが、自分たちだって退勤後や週末に予定を入れているのに、育児は免罪符なのだろうかと問われました。イクメンがもてはやされる一方で、誰かにしわ寄せが行ってしまうのでは、意味がないのです。平等な社会は、それぞれが気づくなかで意識を変えていくことが大切であると思います。

大学という学問の府で、ジェンダーに関する研究が行われることは、必須でありとても重要なことです。しかし一方でゼミやサークルの活動のなかで、古い意識が持続されているのでは、研究が意味を持ちません。

慶應義塾は福澤先生の教えを受けて、私たちひとりひとりが意識改革と実践を心がければ、SDGsの実現に向けても先達となれることを信じています。本日はご清聴ありがとうございました。

(本稿は、2020年1月10日に行われた第185回福澤先生誕生記念会での記念講演をもとに構成したものです。なお引用文献について、読みやすさを考慮し、一部表記を改めたところもあります。)

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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