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【講演録】認めあう社会──福澤諭吉の女性論・家族論に学ぶ

2020/03/24

女性の地位向上に必要なこと

男女が平等な存在であることを理解したうえで、女性の社会的地位を向上させるために必要なものは何か。本日は福澤先生の主張のなかで、次の4つの点を取り上げたいと思います。

まず第1番目は、女性に責任をもたせることです。先生は明治18年の「日本婦人論」において、「日本国の女子を見れば何等の責任あることなし」「内外共に責任なくして地位甚だ低く」と、家の内外共に責任のないことが、女性の地位を低く留めている。責任を持つことは、人間を成長させ、それは権利、またそれを行使する力といった「権」の本質につながっていくと述べます。

これはまさに今日的な指摘であると思います。現代でも女性と責任との間の距離が、冒頭の20代女性たちの考えに繋がっていくと思いますし、女性の非正規雇用の高さに現れていると思います。ただ福澤先生の時代は、まさに女性に責任が与えられない、それが地位を低く留めていたわけですが、今は女性たち自身が責任を持つことに尻込みをする状況も報じられています。もちろん責任を引き受けられる労働環境が整っているかどうかの、鶏が先か卵が先かの議論にもなりますが、しかし日本マクドナルドCEOサラ・カサノバさんも指摘されるように、日本女性の弱いところでもあると思います。福澤先生が指摘された責任の存在の重要性に、私たちは取り組まなければならないと思います。

また第2点は経済的に力を持つことです。「権は財に由て生じ財は権の源」と述べ、女性が経済的に自立できるようになれば、力を増すことができると主張します。

先生は「男女交際余論」(明治19年)の中で、「自今以後(いまよりのち)は婦人とても何か職業を求めて、如何なる場合に迫るも一身の生計には困ることなきの工風(工夫)専一なるべし」と女性が職業を持つことを勧めました。この話をすると、「専業主婦を否定するのか、自分の母は専業主婦だが、すばらしい生き方だと思う」と述べる学生がいます。私は、専業主婦というのは非常にリスクの高い選択ではあると思いますが、否定をするつもりはなく、福澤先生もそうです。先生は、夫が外で働くことができるのは、妻が家の中のことを担当しているからで、その稼ぎは、半分は妻のものである、家の財産について女性にも所有権をもたせるべきであるとも議論しています。重要なことは、経済的に力を持っているということです。

第3点は、男女は学び合う関係性を持つべきだという点です。先ほども述べましたように、福澤先生は明治以降の社会は、人と人とが交際をすることによって形成される。まさに「人間交際(じんかんこうさい)」であると述べられましたが、その交際は同性だけでなく、男女間でも行われるべきだと述べています。

日本では長い間慣習の中で、男女間に、精神的な豊かさをもたらすような幅広い交際は育まれてこなかった。福澤先生はその状況をわかりやすく、日本では男女は「大礼服」で会うか「裸体」で会うかの二者択一になっていると述べています。交際は幅広く継続して行われるべきで、その中で男女も知らず知らずのうちに、お互いの智徳を高めあうことができると、『男女交際論』(明治19年)の中で次のように述べています。

知らず識らずの際に女は男に学び男は女に教えられて、有形に知見を増し無形に徳義を進め、居家処世の百事、予期せざる処に大利益あるべきは又た疑いを容れざる所なり。

脳中の帳面と第2の性

そして4番目として、これが福澤先生の指摘のうちの、最も重要な点であると思いますが、意識の改革が必須であることを主張します。まさに現代まで通ずる最も深刻で、本質的な課題であると思います。

先生は、本来対等であるはずの男女に、差異が生じてしまう理由を、『日本婦人論 後編』の中で次のように述べます。

何として男女に如何なる徴(しるし)もあらざれども、儒者の流儀の学者が婦人を見て、何となく之を侮り何となく男子より劣りたる様に思込み、例の如く陰性として己が脳中にある陰の帳面に記したるものなり


すなわち人びとは成長の過程で、明確な理由を検証することもなく、ただ「何となく」女性を侮り、ただ「何となく」女性は男性より劣っていると考える。しかもその情報を、勉強したことを書き込んでいくノートではなく、「脳中」にある「陰」の帳面、頭の中のノートに書きつけていく。そしてそれに従って、行動していく、その点が問題なのだと述べます。まさにジェンダーバイアスと、その成り立ちに対する指摘です。さらに先生は、「新女大学」の中で次のように述べます。

所謂(いわゆる)儒流の古老輩が百千年来形式の習慣に養われて恰も第2の性を成し、男尊女卑の陋習(ろうしゅう)に安んじて遂に悟ることを知らざるも固よりその処なり


男女は生まれながら生物学的な性差は持っている。生物学的性差の上に、歴史の中で培われてしまった習慣によって、後天的な社会的性差が加えられる、そのことが問題であると指摘しています。

最近の学生たちはボーヴォワールといってもあまりピンとこないようなのですが、ボーヴォワールが「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」と『第2の性』を著したのは、1949年でした。福澤先生はそれよりもちょうど50年も前に、「第2の性」という言葉を使って、人びとに社会的性差の存在を訴えました。もちろんボーヴォワールの意味するところと、福澤先生の概念がぴったり一致するわけではありませんが、性差というものが人びとの意識によって規定されていることを見抜き、「第2の性」という言葉を使って提議したことは、特筆すべきことであると思います。

男性たちの意識が変わらない限り、女性の社会的地位は変わらないという点に、いちはやく気づいたのは福澤先生でした。すなわち男性論を女性論と表裏一体のものとして捉え、社会におけるジェンダーバイアスの視点で、女性の地位向上を論じました。まさに本質を捉えた議論と言え、この点で、福澤先生の女性論は傑出していたと言えます。ゆえに冒頭で紹介したように胸の晴れる、同感を禁じ得ない、同時代的名著と評されたのだと思います。

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