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【講演録】認めあう社会──福澤諭吉の女性論・家族論に学ぶ

2020/03/24

家族の紐帯

こうした男女の関係性が最も身近に顕著に表れるのは、夫婦です。

福澤先生は家族を結ぶものとして、愛と敬と恕という3つの感情を挙げます。愛、愛するということは必須条件ですが、しかしこれは動物でも持っているものであると言います。人間が動物と異なるのは、敬という感情を持つことで、敬、すなわち敬意は何かといえば、『日本婦人論 後編』の中では「妻を一人前の人として夫婦同等の位に位し、毎事に之に語り毎事に之と相談することなり」と、相手を同等の位と認めて、何についても語り合い、勝手に決めることなく相談しあうことであると述べます。

さらに恕という感情が重要です。同じく『日本婦人論 後編』の中で、次のように述べます。


恕とは心の如しとの二字を一字にしたる文字にして、己れの心の如くに他人の心を思いやり、己が身に堪え難きことは人も亦堪え難からんと推量して自から慎しむことなり

相手の立場にたって物事を考える。相手の心を思いやり、自分が嫌で耐え難いことは、相手も嫌で耐え難いであろうと考え、そのような行動は起こさない。また恕には「ゆるす」という意味もあるので、互いに寛大になることができるという意味も含まれると思います。

認めあうこと

こうした相手を敬い思いやり、相手の立場にたって考えるということは、家族の間だけのことではなく、社会一般に広げられることであると思います。いわれがないのに「何となく」理由もなく優位に立っている自分を振り返り、相手を同等の存在と認め、敬と恕という気持ちを持つことが重要であると思います。

大切なことは、そうした社会を実現できるか否かには、意識の問題が大きく関わるということです。意識を改革しない限り、状況は変わっていきません。

福澤先生は「日本婦人論」の中で、次のように、物事は法律を作ったからといって変わるわけではなく、習慣を変えようとする意識の問題が重要であることを述べます。


同権の根本は習慣に由来するものにして、法律の成文は唯その習慣の力を援るに過ぎざるのみ


これもまさに、現代社会に通ずる指摘です。法の整備は重要ですが、それは第一歩に過ぎないのです。福澤先生は頭では理解しても、世間体にとらわれ行動に移せない人びとを、「新女大学」の中で「勇気なきばかもの」であると喝破します。頭で理解するだけでなく、意識を変え、行動に移すことが大切なのです。

変わりゆくために

今まで述べてきたようなことは、今となっては当たり前のことかもしれません。分かりきったことだけを述べていると、お叱りを受けるかもしれません。しかし冒頭で述べたように、ジェンダー・ギャップ指数が121位であることは現実であり、また最近よく耳にされることも多いと思いますが、2015年の国連サミットで、全会一致で決定されたSDGs(Sustainable Development Goals 持続可能な開発目標)の17のうち、日本にとって最も到達が難しいのはジェンダーの平等であるとも言われています。意識を変えることは簡単ではありません。

私の話を聞いて、「そんなことをいっても、うちでは女房の力が強くて、頭が上がんないよ」とか「世の女性は強いぞ、ホテルでランチしているのは女性ばっかりじゃないか」とか思われる方もいらっしゃるかもしれません。福澤先生もそれはお見通しで、『通俗国権論』(明治11年)では家の中の細かなことは、実は女性が実権を握っているともおっしゃっています。でもそれと、社会で活躍できるかどうかということは別の問題なのです。

今日は慶應義塾と女子教育の話までは言及できませんが、福澤先生は女性に対する教育を考える時、教育を受けた後に、社会にその受け皿があるかどうかが重要であると主張します。『日本婦人論 後編』での表現を借りれば、国は男女共有寄り合いのものです。男性だけで維持しようとすれば、社会を支える力を半減することになるのです。

福澤先生が最後の女性論、家族論を書かれてから120年以上が経ちました。もちろん先生の主張が、もはや通用しない部分もあります。むしろそうでなければ、私たちは何の進歩もなかったということになります。

しかしそれでも先生が本質を見抜き、鋭い視点で指摘した根本は、まだまだ改められていないと言えます。特に多様化してきている社会のなかで、福澤先生が指摘される「意識」の問題は、単純な男性女性の問題だけではなく、様々な方向へ広げていかなければいけないと思います。敬と恕のある社会が、多様化を受け入れていく鍵であると思います。

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