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【講演録】認めあう社会──福澤諭吉の女性論・家族論に学ぶ

2020/03/24

ジェンダー・ギャップ指数のランキング

年次総会のダボス会議で知られる世界経済フォーラム(WEF)は、男女が平等であるか否かを数値化し、国別にランキングして毎年The Global Gender Gap Index(GGGI=グローバル・ジェンダー・ギャップ指数)を発表しています。昨年末に発表された2019年の結果は、日本は過去最低の153カ国中121位でした。驚くほど男女平等が進んでいないということです。その要因は、政治分野における女性参加の低さにあると指摘されていますが、それだけではなく、詳細にみれば、経済分野では依然男女間の賃金格差は大きく、厚生労働省の発表によると、女性の賃金は男性の7割を若干超える程度の額に留まっています。また教育分野でも高等教育に進めば進むほど、またその後の研究者としてのキャリアを比較すると、男女の格差が大きいことがわかります。

なぜ日本はこのように男女平等の実現が遅れてしまっているのでしょうか?

GGGIの結果が発表されると、様々なメディアで平等の推進のためにどうすべきかが論じられます。昨年朝日新聞がシリーズで報道した中に、ある作家が思いついた男女の不平等が一瞬でわかる方法として、男女を入れ替えてみるということが紹介されていました。それを読んだ時に、そんなことは、福澤先生がとうの昔、135年も前に言っているのに、今更新発見のように言われることに驚きました。福澤先生は、明治18(1885)年の『日本婦人論後編』の中で、次のように述べています。

今試に女大学の文をそのまゝに借用し、唯文中にある男女の文字を入れ替えて左の如く記したらば、男子は難有(ありがた)くこの教に従うべきや


当時、女性は男性に従って生きるべきであることを説いた、「女大学」という本が流布していました。女性は男性よりも劣った存在であることを自覚し、たとえば自分の両親よりも夫の両親を大切にすること、夫が病気になれば妻は看病すべきだが、病に罹った妻は離縁されて当然というような、女性に対し理不尽を強いる教えでした。福澤先生は文中にある男女の文字を入れ替えてみなさい、男性はその教えをありがたく思い、それに従うかと問いかけています。

社会形成と男女の平等

福澤先生は、男女は平等であるべきという強い信念をもっていました。それは先生が構想していた近代社会の在り方と大きく関わっています。

明治という新しい時代を迎え、先生は身分制度によって固定化されていた、それまでの封建社会とは異なり、新たな社会は個人が主体となって形成されなければならないと考えました。個人個人が自由と独立を手に入れ、「一身独立」した個人が、交際をすることによって社会を形成し、それが国家へとつながっていく。まずは強靭な国家像を描き、それにふさわしい家族像、国民像を求めるのではなく、「一身独立」から「一家独立」「一国独立」へと展開していく。あくまでも個人が主体となる、ひとりひとりが重視される社会であることが必須であると考えました。

そして社会は男女によって成り立っているのであるから、その男女は同等な存在でなければならないと主張しました。『日本婦人論 後編』の中で、もし女性に対して一人前と認めず、存在なきに等しい扱いをするのであれば、人口は半分に減じ、国を支える力は半分に止まるとも述べます。

明治初期は欧米からの影響もあって、知識層の男性が男女の持つ権利が同じか否かを論ずることは、決して珍しいことではありませんでした。しかし福澤先生の主張が他と異なるところは、男女の存在そのものの平等を、すべての人びとに向かって主張したところです。福澤先生は、公民としての権利がどうであるとか、私人としての権利といった難しい議論をする前に、まずは誰もが、男女の存在そのものが平等であることを理解すべきであると主張しました。

福澤先生は明治3(1870)年の「中津留別の書」の中で次のように述べます。

天の人を生ずるや、開闢の始、一男一女なるべし。数千万年の久しきを経るもその割合は同じからざるを得ず。男といい女といい、等しく天地間の一人にて軽重の別あるべき理なし

なぜ男女は平等なのか。周りを見回してみれば、男女は同数生まれてくる。これは数千年来変わらない。これこそが男女に重い軽いの差別がない証拠だというわけです。誰もが思い当たる身近な例を用いて、誰もが理解できる男女平等論を説きました。

また『学問のすゝめ』の第8編(明治7年)でも次のように述べています。

抑(そもそも)世に生れたる者は、男も人なり女も人なり。この世に欠くべからざる用を為す所を以て云えば、天下一日も男なかるべからず又女なかるべからず


『学問のすゝめ』は「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと云えり」という言葉で始まりますが、当時この文章を読んだ人の、おそらく9割5分以上が、無意識にその「人」とは「成人男性」のことであると考えたと思います。老人や子ども、ましてや女性が含まれるとは意識しなかった。福澤先生はそれがわかっていたので、わざわざ「男も人なり女も人なり」と説いて、自身が言う「人」とは男女双方であり、どちらもこの世に欠くことができない、同等の存在であると主張しました。

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