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【講演録】漫画家の目から見た世界

2019/11/13

恐竜本を描くきっかけ

私は恐竜の本もよく書いているので、なぜ恐竜の本を書くようになったかということを少しお話しします。

漫画を描く上で必要なのは、見たものをそのまま受け取らず、ちょっと横から見たり、裏から見たり、いろいろな角度から物事を考えて、いろいろな立場の人の見方をなぞることです。そのひねりがなければ漫画としておもしろくも何ともないです。

30代のころ「朝日小学生新聞」という子ども向けの新聞で毎週一コマ漫画を連載していました。当時は、編集者が家まで原稿を取りにきました。いつも待たせて申し訳ないので、その後、雑談などをします。その時、日本の恐竜の現状ってひどいね、という話をしました。

日本ではまだ恐竜は見つかっていなかったので恐竜の専門家はいませんでした。だけど、僕は昔から興味があったので恐竜のことを調べていました。当時、子ども向けの恐竜の本がいくつか出ていましたが、それを開くと、「恐竜は昔、本当にいました、怪獣は中に人が入っています、恐竜と怪獣を区別しましょう」と書かれていました。恐竜についてのまともな本がない時代だったのです。アメリカなどで出た本の情報の寄せ集め、恐竜以外の色々な古生物と一緒に掲載されているだけの本ぐらいしかなかった。これでは地球の先輩に対していくら何でもひどい扱いだと思っていました。

恐竜というのは大昔に暮らしていた普通の動物で、しかも2億年近くという長い間、栄えていました。その動物に対する敬意も尊敬も生態系の概念もない。ただ、ティラノサウルスは肉食で怖いとか、ステゴサウルスは背中にとげがあるけれど本当は弱いとか、不確実な情報が載っているだけでした。地球の歴史や古生物をこんなものだと子どもたちが思ってしまうのは大間違いです。そんなことを世間話のつもりで「朝日小学生新聞」の記者に話したら、「そんなに文句を言うなら自分で書きなさい」と言われ、子ども向けの新聞に恐竜についての連載を書いたんです。内容は発見された化石から、恐竜がどんな動物だったか自分で考えてみようというものでした。

それを見たあかね書房の編集者から依頼があり、子ども向けの恐竜の本をつくることになりました。当時、化石はこれとこれが見つかっていて、見つかった化石から復元するとこうなります、といったことを解説する本はなかったので、当時としては珍しがられ、僕の本としても珍しく売れた本になりました。
さらに、それまで恐竜の本はアメリカなどから入ってくる一方だったのが、アメリカの出版社がこれはおもしろいと翻訳し、アメリカでも出版されました。アメリカの子どもから英語でファンレターが来たこともあります。その後新潮文庫で一般向けに『恐竜博画館』として書き下ろし、これもけっこう売れました。このような経緯で恐竜の本をいくつかつくりました。

当時、日本で出ている恐竜の本は国立科学博物館の先生などが監修していました。でも、その先生は例えばアンモナイトの研究をしているのに、古生物が専門だからと監修者になっているわけです。これではアサリやシジミの研究をしている人に、「キリンの首はなぜ長いのですか」と聞くようなものです。つまり、恐竜を真面目に研究するというジャンルそのものがなかったのです。

そのために僕は自らそういうジャンルをつくったということです。それを見て発奮して、「それならば俺も」という人たちが、それからずいぶん出てきてくれて、今、若い人たちが大勢、恐竜の研究者になってくれました。そのことに僕は一石を投じたと自負しています。

恐竜の化石発掘現場で

最近は日本でも少しずつ恐竜の化石が見つかるようになってきました。福井県は今、恐竜王国になって立派な博物館もできました。でも、化石が見つかり始めた時、見つけた人たちがそれをどう扱っていいかわからなかったので、あの人は漫画家だけど恐竜の本も書いているから、ちょっとしゃべってもらおうと呼ばれ、恐竜の発掘現場にもずいぶん行きました。外国の発掘現場などにもテレビ番組で行かせてもらいました。

海外の恐竜の発掘現場というと、夢とロマンにあふれた世界のように思うかもしれませんが、なかなか大変です。内モンゴルのゴビ砂漠へ3週間ぐらい発掘で行ったことがありました。省都から車を連ねて砂漠の真ん中に入ってキャンプをつくり、パオ(モンゴルテント)に泊まります。朝は靴の中のサソリを出すところから始まります。そしてヒツジの肉しか食べるものがない。ちょっとしょっぱい井戸の水でゆでたヒツジの肉を食べるだけの毎日でした。

全くの原野で、人が全然いない。そんなところで、内モンゴルの恐竜の専門家の先生と一緒に、以前化石が出た場所へ行って掘ります。そうしたら、そこで白亜紀後期のプロトケラトプスの全身のきれいな化石に出会いました。そのへんに転がっているラクダの骨と同じぐらい新鮮に見える、状態のいい化石でした。

化石を掘っていると、無人の荒野だと思っていた所にいつの間にか人が集まってきます。いよいよ掘り出して、それをトラックに積んで運び出そうという時、いきなり大勢の人たちにトラックが取り囲まれたのです。何だろうと思ったら、村の責任者という人が、「ここにある恐竜の骨は村の財産である、それを勝手に持っていくとは何事だ」と言うのです。「われわれは研究者で、これを博物館に持っていって研究して展示する」と言うと「いや、これは村の財産だ、村もいつか恐竜の博物館を自前でつくるから持っていくな」と主張するのです。結局いくらかのお金を支払って話がつきました。

アメリカの発掘現場でも地権者の権利等のトラブルがよくあります。インディアン居留区でティラノサウルスの化石が見つかり、それを地方の研究所が発掘して持っていったら、「インディアン居留区のものはインディアンに権利がある、地権者の許可を得ていない」と言われました。インディアン居留区の管轄はFBIですから、彼らが銃を持って研究所に押しかけてきてティラノサウルスを押収して持って帰ったのです。その後、その化石はオークションにかけられ何億円かで落札され、今、シカゴの博物館に飾られています。またそのレプリカが、オークションにお金を出したディズニー・ワールドに飾られています。恐竜の化石は、お金になるため、人の欲が絡んだりすることもあります。日本の発掘現場でも研究者同士の足の引っ張り合いとか、子どもたちにはとても言えない世界があります。

でも、北海道で新しい恐竜が発見され、全身が組み立てられた、というとニュースを聞けば、子どもたちはいつか恐竜を発見したいなと思うでしょう。現場というのは人間同士の複雑な利害が絡み合う大変な場ですが、夢を与えてくれる場所でもあるのですす。

ゴビ砂漠で発掘している時にはパオに泊まっていましたが、ヒツジの肉だけではさすがにもたず、途中から、内地からロケの応援で来てくれた人々が持ってきてくれたのがカップヌードル。これがおいしいのです。文明の味がしました。

ここは乾燥地帯でお手洗いという発想は一切ないのです。周りはほとんど無人で、われわれも郷に入れば郷に従うしかないのですが、砂漠で見通しがいいので昼間はとても行けない。しかし、夜は真っ暗でオオカミもいるので、とても表に出られない。だから、夜明け寸前に行くのです。皆、夜明けの寸前になるとテントを中心に、四方八方にシャベルを持って散っていきます。自分の使う分だけ穴を開けて、しゃがんで、「なぜこんなところでこんなことをしているのだろう」と思いながら、夜明け寸前の空を眺めながら用を足します。

その時にびっくりしたのは、砂漠で夜明けですから、まだひんやりしているところへ、いきなり体に熱を感じる瞬間が来るのです。びっくりして飛び上がると、お尻に地平線から顔を出した朝日が当たっていました。やけどするぐらいの感じなのです。その後、自分の出したものを丁寧に埋めて戻ります。後で聞いたら、そのあたりの砂漠の砂が季節になると舞い上がって日本へ黄砂となって届くとのことでした。それで黄砂と言うのかなと思いましたが(笑)、何人かの方にご迷惑をかけたかもしれません。

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