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【講演録】漫画家の目から見た世界

2019/11/13

様々な仕事

漫画家になっておもしろかった仕事の1つが旅行雑誌からの仕事でした。当時の日本交通公社、今のJTBの出版事業部が『旅』という月刊誌を出していて、どこか旅行に行って、絵と文章を書いてくれないかという依頼が来ました。それを連載でやることになり、全国あちこち行ける、おもしろそうだと思いました。いろいろな現場が見たかったのです。

月刊誌なので、例えば「今、紅葉がきれいです」という特集の号を組む時、当然紅葉がきれいなのは本の出る頃ですから、写真を撮っても今年の写真は来年にしか使えません。だから、その場所の一番いい時ではなく、そのちょっと前にそこへ行き、一番いい時はこうなるんですよ、と説明を受けながら漫画を描くわけです(笑)。サクラは咲いてないけれど、咲いたらきっときれいなんだろうな、と想像しながら描く。いろいろなところへ、一番いい時でない時にばかり行かされました。それはそれでおもしろかったですが。

一番過酷だったのは貨物列車の取材です。子どもの頃から汽車好きだったので、大喜びで新幹線で広島まで行き、貨物列車の機関車に乗りました。広島から汐留までの貨物列車の特急の取材です。貨物列車は子どもの時からのあこがれで乗りたかったんです。機関室に乗り込み、機関士さんが操作しているところを見せてもらうのです。しかし、機関士さんは2時間ごとに交代し、次々元気に乗りこんできますが、こちらは1人で取材しなければなりません。真夜中に山陽本線、東海道本線と走って、明け方、汐留駅の手前で朝日を真っ正面から受けながら東京に入った時にはこちらの目はくっ付き、よれよれでした。

その時、この貨物列車と同じように真夜中も、朝早くからも、人は働いて、動いているのが分かりました。社会ってすごいなと思いました。でも、逆にすごすぎるとも思いました。人間は働いているのではなく、社会という制度を守るために人間が働かされているのではないか。それぐらい働くということが当たり前になっているけれど、これって何だろうとふと考えました。旅に出るといろいろな感性の扉が開くのですね。そのようなことも考えながらいろいろな体験をさせてもらいました。

ボルネオやイースター島での体験

いろいろな体験といえば、TBSで「新世界紀行」という1時間番組があり、そこである時、ボルネオに行くことになりました。ジャングルの中を、いきなり世界最大の花であるラフレシアを探しに行きましょう、と言われてさまよいました。蒸し暑くてヒルがたくさんいる。ヒルがつかないよう体の隙間をふさぐため手袋をしたり靴下をはいてジャングルの中を歩いていくのです。

とにかく汗だらけでジャングルの中をずっと歩きます。たまにきれいな川があります。川があるとうれしくなって、皆で裸になって飛び込みます。大喜びで飛び込むのはいいけれど、何日もお風呂に入っていないものですから、人の汚れた体の洗った水を浴びたくないので、人より少しでも上流に行こうとする(笑)。なので横一列に並ぶことを提案し、ゴシゴシとお尻を洗ったり頭を洗ったりしました。

夜はジャングルの中の地元の宿泊施設に泊まりました。水上ハウスみたいなところが宿泊所になっていて、階段を上がって部屋に入ると隅のほうにお手洗いがあります。これがコンクリートのたたきがあるだけで、真ん中に穴が開いている。横にゴムホースと蛇口があり、終わったらそれで洗いなさいというウォッシュレットです。

水上ハウスというのは下が養魚場になっていて、そこで魚を飼っています。用を足した後のものは魚の餌になる仕組みです。こんな倹約の仕方もあるのかと思っていると、朝食にその魚が出ている(笑)。食物連鎖という言葉がありますが、もう少し距離をおきたいものです。

また、ロングハウスという、高床式の少数民族の家がありました。上に昇ると、下の囲みの中ではブタを飼っていました。やはりブタのご飯は人間のもので、その意味では無駄がない。今の日本は多くのものを無駄にしてしまっています。食品ロスとよく言われますが、人間の捨てた生ゴミをネズミやカラスが狙うのはまだ食べられるからです。利用できる食べ物をほかの生き物に利用させないで燃やしている。生態系からみれば、これも大変な食品ロスです。そんなこともボルネオのジャングルの中でふと考えました。

おもしろかったのはイースター島です。謎のモアイ像があるところですが、テレビのロケで行くと現地の人が何でも見せてくれるのです。斜面のところに有名なモアイ像が立っている。これは宇宙人ではないかと言われていますが、現場に行ってみてわかったのは、あれは全部、つくっている途中で放棄されたモアイだということです。

イースター島は小さな火山島ですが、噴火口に近いところにある凝灰岩を切り出して、それを何キロも運んで海岸まで持ってくる。そこにもモアイ像がいくつも立っているのです。何か祭り事でもしたのでしょうか。凝灰岩のモアイ像にサンゴの白い石でつくった大きな目玉がついていて、島の内側を見ているのです。

それだけのものをつくったり運んだりする土木技術がありながら、石造りの橋や家などの建築物は一切ありません。つくったのはモアイだけ。何とも不思議な社会です。イースター島はほかの社会から何千キロも隔絶していて、日本の平安時代ぐらいにポリネシアの人たちが移り住んだらしいのです。その後、絶海の孤島の中で、ほかの文明との交流がないまま、自分たちのやっていることを検証するチャンスが全くなく、何百年もモアイをつくり続けてきたのですね。

おもしろいのはモアイ像が時代と共にだんだん大きくなることです。これは人間の性で勉強でも運動でも、あいつよりちょっと速く走りたい、あいつよりちょっと優位になりたい、といった願望の現れでしょうか。そして大きくなってくると運ぶのが大変なので、途中で放棄してしまい、あのようなかたちで斜面に残っているのです。

現地で一番不思議に思ったのは、モアイ像をつくるために、どうしてそんな苦労をしていたのか、それが全くわからなかったことです。誰かに「ほかの人たちはもっと楽しんでいるのに、あなたたちはなぜこんなことをやっているの?」と一言言われただけでも崩壊するのではないかと感じさせる、妙な、いびつな文明のように思いました。

このように謎になった理由は、1つには西洋人による植民地化です。イースター島を「発見」した西洋人は、勝手にフランス領だと決めて、フランス人は島を自分のものとして島の住人を奴隷として売ってしまい、南米のチリ鉱山で働かせたのです。そこで、島のほとんどの人間が亡くなってしまい、100人ぐらい生き残った者がやっと島に帰ってきただけなので、島の文化の伝承は完全に途絶えてしまいました。これで余計に、「なぜモアイをつくっていたのか」が謎になってしまいました。

木板に文字みたいなもので島の歴史や伝承みたいなものを刻むようなかたちで記録されたものはあったのですが、キリスト教の宣教師がそれを全部集めて燃やしてしまいました。この2つの理由で島の伝承は一切なくなってしまいました。今、島に暮らしている人たちはほとんどが植民地化後にポリネシアから来た人たちです。そのようにして失われた文明がたくさんある。人間のやることの恐ろしさを思い知らされました。

大航海時代に行われたことは、今の価値観では考えられないようなことばかりです。アフリカで人をさらってきて南米や、北米で奴隷として働かせる。そのことが現在の人種問題や国境問題とも関係しています。そのようなことをつい何百年前まで普通にやっていたという歴史の上に今の世界はあるわけです。ですから、若い人に世界のいろいろな現場を見て感じてもらいたいと思いますが、今の若い人はあまり海外旅行をしたがらないという話を聞くと、もったいない話だと思います。

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