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【講演録】漫画家の目から見た世界

2019/11/13

社会人としての短い経験

大学を卒業することになった時、漫画を続けたかったけれど、当時の娯楽中心の漫画の世界には自分の漫画がいる場所はないと思いました。

当時、慶應の斯道文庫にいらっしゃった草森紳一さんが漫画の評論を書いていて、その草森さんに呼ばれていろいろお話をする機会がありました。サントリーのPR誌「洋酒天国」で漫画についての座談会みたいなことをやり、その後もお付き合いいただいて外国の漫画もいろいろ紹介していただきました。その時、気付いたことは、一口に漫画といっても「日本のものと外国のものは違う」ということです。

日本でいわゆる一コマ漫画で商売として成り立っている漫画は、新聞などに出ているような政治漫画か、後はちょっとしたお色気のあるようなカットのようなものです。後は、少しコマがあるようなユーモア的な漫画やイラストみたいなものでした。先輩たちの作品にはおもしろいものがたくさんありましたが、それは瞬間風速的なおもしろさです。特に新聞などに出ている時事漫画は半年や1年たつと、何を揶揄して描いたのか、本人すらわからないこともあるくらいでした。その時の話題がわからなくなってしまうと、漫画自体どう評価していいかわからなくなってしまうのです。

ですから当時、おもしろい漫画家がたくさんいたのに、残念ながら作品が残っていません。政治漫画で言えば、例えば清水崑(しみずこん)さんとか近藤日出造(こんどうひでぞう)さんとか、似顔絵が上手くて、政治家の似顔絵だけで漫画が成り立つぐらいおもしろかったのですが、そのような漫画は、まとめられて単行本として見るチャンスがほとんどないままに消耗されていました。

しかし、テレビがない時代は政治家の本性が表情に出るのは似顔漫画だったのです。「こいつはずるいやつだ、こいつは卑怯なやつだ、こいつはちょっと足りないのではないか」というのを全部、絵で表現していた。今、テレビを見ていると、漫画にも描けないようなおもしろい議員の方々がいっぱいいらっしゃいまして、確かに政治漫画というのは今の時代と合わないのだろうと思ってしまいます(笑)。

一方、外国の漫画を見て思ったのは、漫画家個人の、哲学なり考え方なりを漫画という表現形式で自由に表現してもいいのではないかということでした。メッセージのある絵と言っていいかもしれません。自分自身のテーマを漫画で表現できたら、自分としては一生続けてもいい。そういう漫画を描きたいと思ったのです。

ところが、日本の社会にはそういうものを発表できる場があまりない。いわゆる商業主義の新聞や雑誌の中では、そのようなことはありえなかったのです。

そこで、やむなく商事会社に就職しました。とはいえ、ちゃんと仕事をしたいわけでもなく、とりあえず給料をくれそうだというので入ったわけで迷惑な話です。結果として10カ月だけいましたが、とてもおもしろかったです。皆が仕事を教えてくれるし、いろいろな方がいらっしゃる。学生時代とは180度違い、実社会というのはこうやって動いているのだと思いました。

商事会社ですから、モノを売ったり買ったりしています。昭和41年と言えば、ベトナム戦争真っ盛りの時です。日本は高度成長が始まった時で、地金、銅とか真鍮といったものが現場のあちこちで欲しがられていたので、それを集めて売るような部門がありました。そこへ台湾の業者が日本人を通じて大砲の空薬莢を売り込みに来たのです。薬莢は真鍮でできており、105ミリ砲とか150ミリ砲というと1個の薬莢が結構大きい。その真鍮の薬莢の撃ち殻がいくらでも供給できるからそれを買わないかということでした。会社にとって真鍮の古い材料はいくらでも欲しい。それを古河電工とかの電線会社に売るのです。

台湾の業者が言うには、ベトナム戦争の真っ最中だから、ベトナムの将軍がいくらでも供給してくれるというのです。何トン必要だと言えば、その分だけ大砲を撃つという(笑)。決まった量をきちんと納入できるから上手い話でしょうと。ベトナム反戦運動が盛んに行われていた時代に、戦争をお金もうけの手段としてこんなふうに利用できる。そうすると新聞やテレビで見るベトナム戦争とは全く違う姿が見えてきます。「現場ってすごいな」と思いました。この話は結局、中に不発弾が混ざっていて、事故が起きてはまずいということでお断りすることになりましたけれど。

漫画家になる

現場は確かにおもしろかったのですが、長くいると当事者になってしまいます。そうすると客観的におもしろいだけでは済まなくなって、自分でいろいろなことをやらなければいけなくなってきます。当たり前のことですが、これはちょっと辛い。そこで貯金していた給料を使って一コマ漫画の展覧会をやったり、自費出版で漫画の本をつくったりしました。

当時、文藝春秋が『漫画読本』という雑誌を毎月出していました。これは大人向けの漫画を主体とした娯楽雑誌で、ゆるいストーリー漫画みたいなものと一コマ漫画が掲載されており、外国漫画の紹介もよくやっていました。「文春漫画賞」というものをやっていて、新人の発掘にも結構力を入れていました。

ここならおもしろがってくれるかなと思い、何回か応募しました。その時の審査員のお一人が作家の北杜夫さんでした。そうしたら北杜夫さんから『小説新潮』で童話シリーズの「さびしい王様」というお話を書くので、その挿絵を描いてもらえないだろうか、というお話をいただきました。当時は名もない、ただのかけだしでしたが、就職して10カ月たった頃にそのようなお話をいただき、一コマ漫画をおもしろがってくれるようなところも少しはあったので、だんだん漫画の仕事もするようになっていきました。

当時の会社の初任給は約2万円でしたが、アルバイトで漫画を描いたお金が月々それぐらいになってきました。それで会社を退職し、漫画家として活動を始めることにしたのです。文藝春秋の『漫画読本』は私の漫画をおもしろがってくれて、ときどきページをくれるようになりました。一コマ漫画を1枚だけポンと見せてもそれだけですが、16ページとか8ページを自由に使ってください、と言われると1つのテーマが描けます。『漫画読本』はそれをときどきやらせてくれて、当時はこれが一番うれしかったです。

その時の『漫画読本』の編集長が半藤一利さんでした。今、昭和の語り部として本もいっぱい書いておられます。そのようにして世の中の隙間のようなところに漫画を描かせていただきました。そのうちに人の目に触れるようになってくると、「子ども向け絵本の絵を描いてください」とかいろいろな話が来るようになり、いつの間にか何とか漫画家になってしまったということです。

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