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【講演録】漫画家の目から見た世界

2019/11/13

  • ヒサクニヒコ

    漫画家・塾員

ただいまご紹介にあずかりましたヒサクニヒコです。普通は漫画家という肩書になっていますが、やっていることは、あまりに多くてわけがわからない(笑)。まず、そこから説明しなければいけないでしょう。

今、漫画というと、ほとんどの人がコミック、劇画、アニメーションを思い浮かべると思います。ところが僕がやっているのは主に「一コマ漫画」と呼ばれる、今ではあまり見る機会のない漫画を描いています。今、日本の漫画界は劇画やコミック、アニメーションを描いている人が大半で、一コマ漫画で生活している人は2、30人ぐらいだと思います。つまり、今、皆さんは非常に珍しいものを見ている(笑)。パンダより珍しいものがしゃべっていると思って聞いてください。

空襲の体験

漫画というのは、それぞれの時代に、それぞれの世代が、それぞれの見方で接しています。僕より上の世代だと『のらくろ』とか『冒険ダン吉』など戦前の漫画で育った世代ですが、僕が育った戦後間もない頃になると、やっと子ども向けの漫画がどんどん出てきて、それがいつの間にか読者と一緒に成長し、今のようなコミック文化をつくっていきました。

その間にひと時、「大人向けの漫画」というものが育ち、伸びてきた時代がありました。中心になった一コマ漫画というと、皆さんが最初に思い浮かべるのは、新聞などに載っている政治漫画でしょうか。これは昔は「時事漫画(じじまんが)」と呼ばれていた、新聞などに政治家の似顔絵など、時事的なことを風刺した漫画のことです。他にちょっとお色気のある漫画などもありました。そのように、漫画と一言で言っても、時代に応じて少しずつ思い浮かべるものが違ってきます。ですから、まず僕が生きてきた時代をはっきり示しておきたいと思います。

僕が生まれたのは昭和19年2月です。終戦の時に1歳半ですが、東京の大久保の家が20年の5月の山手の大空襲で被災しました。僕は当然記憶はありませんが、後におふくろからしょっちゅう「おまえを抱いて炎の中を逃げ回った。枕木が燃えながら落ちてくるガード下を逃げた時は本当に怖かった。おまえは毛布にくるまれて、いろいろな人が防火用水をかけてくれたから助かったんだよ」と言われました。空襲後、3日ぐらい、僕の目が開かなくて心配したという話もよくしてくれました。今一歩で死んだかもしれないという体験です。

空襲の時に親父も家にいました。兵隊に行っていたのですが、所属していた部隊の船がどんどん沈められてしまい、目的地であるフィリピンに行けなくなって召集解除となっていたからです。親父はその空襲の時、おふくろとは別々に逃げました。戦争前の時代の価値観というのは今とは全然違います。おふくろは僕を連れて逃げる。親父は親父で別に逃げる。そしてお互いに無事だったら、どこどこで落ち合おうと言っておくのです。そうすれば、僕がおふくろと一緒に焼け死んでしまっても、親父が生き残っていれば久家はまだ続くわけです。逆に親父が死んでしまっても、僕が生き残っていれば久家は続きます。そのような価値観の時代でした。

その時はアメリカにいわば殺されそうになったわけですが、戦後、3歳の時に葉山にいた僕は、今度は疫痢になって死にかけました。おふくろは親父に「クニヒコ、キトク」と電報を打ちました。しかしその時、近所の獣医さんが米軍の放出したペニシリンを持っていて、それを使ったら一発で治ってしまったのです。だから1回は空襲でアメリカに殺されそうになったけれど、その時はアメリカに助けてもらい、一応貸し借りなしということで今日を迎えています(笑)。

漫画との出会い

僕の世代は本当に何もないところから育っています。物心ついた時、周りは焼け跡だらけでした。進駐軍の放出したサッカリンをお湯で溶かして、「ああ、おいしい」って飲んでいた。そんな育ち方をしたのです。唯一ラジオでこっそり落語を聞いたりするのが楽しみだったような時代の子どもです。テレビがないため、ビジュアルというものが、子ども向けの雑誌に載っている漫画の貧弱なものしかなかったのです。そういうものをむさぼるように見て、好きな絵があると一生懸命写して遊んでいました。

僕は普通部から義塾にお世話になっています。普通部に入ったら図書室には本がいっぱい置いてあり、当たり前ですがどれを読んでもいいのです。それがうれしくてうれしくて図書室に入り浸っていました。そこで、H・G・ウェルズはSF作家だと思っていたら、実は歴史の本を書いていたことなどを知りました。とにかく本に育てられたと思っています。

その頃からどういうわけか、漫画のような、イラストみたいなものを描くのが好きでした。授業中、黒板に先生が書いたものをノートに写しますが、同時にその講義の挿絵みたいなものを描いていました。そうすると、ビジュアルでその光景を何となく覚えているので頭の中に先生の話も入っていくんですね。

本格的に漫画と出会ったのは、高校から大学に入った時です。日吉校舎の今はなくなった梅寿司で友達と一緒に飯を食べていたら、「漫画クラブ部員募集 興味のある人は渋谷の喫茶店『サンパウロ』に来なさい」というポスターが貼ってありました。おもしろそうだから行ってみようかと友達と行ってみました。そうしたら4年生が2、3人いて、久しぶりに新入部員の希望者が来たと喜ばれたわけです。

そこに作品のスクラップみたいなものがあり、それがいわゆる一コマ漫画でした。政治風刺があったり、ユーモアがあったり、お色気があったり、当時の大人向け風の一コマ漫画を持ち寄ってスクラップにしていました。でも、1回集まりがあった後は、4年生は皆、卒論だ何だと言って出てこない。何もしないままほぼ1年が経って4年生はみんな卒業してしまった。僕と友達と2人で、「2年生になるけれど、何にも活動していないし、このまま終わってしまうね」と言っていました。

その当時、早稲田の漫画研究会というものがありました。ここは当時、園山俊二(そのやましゅんじ)とか福地泡介(ふくちほうすけ)、東海林(しょうじ)さだおといった、すでに社会で活躍していた漫画家を輩出していた大クラブで40人ぐらい部員がいたのです。その代表者が慶應を訪ねてきて、「NHKから早慶漫画合戦という企画があるので、ぜひやってくれないか」と言うわけです。しかし、早稲田は40人ほどいるけど、こちらは2人しかいない(笑)。ですが早稲田の人たちは慶應が引き受けてくれないと番組が成り立たないと言う。それはそうですよね、早慶漫画合戦ですから。

5人ずつ選抜の選手が出てスタジオで漫画合戦をやると言うので、僕は普通部からの友達で絵が描けそうなのを何とか3人集めて出場することにしました。ちょうど昭和30年代初めで、当時、NHKは内幸町にありました。「こどもの日」企画だったので子ども向けにバラエティーっぽく見せようと、大きなパネルに「K」と「W」という文字を書いて、それを使って漫画をつくりなさいというたわいもない課題が出たりしました。前田武彦と永六輔が両チームのリーダーでした。ところが、なんとこれに勝ってしまったのです(笑)。そこで慶應も活動を続けようと決心したんですね。

まず何をやろうかと思い、僕が考えたのは、日吉の校舎の廊下で早慶漫画合戦をやることでした。早稲田の漫画研究会の部室は大学の近くにアパートを借りていて、そこに、校内で漫画の展覧会をやるためにパネルに貼った漫画が山ほど押し入れの中に入っていました。そこで早稲田から漫画のパネルを20枚ほど借りて、慶應の5人で同じようにパネルに漫画を描いて、それを日吉の廊下に並べて早慶漫画合戦をやりながら部員募集をしました。すると、卒業する頃には部員が20人から30人ぐらいになったのです。それが今日まで続いているわけですから、うれしい話です。

三田祭にも初めて参加し、教室や廊下の一角をいただいて似顔絵をやったりパネルで漫画を展示したりしました。その時、クラブが活動を始めたのだから顧問の先生もほしいと考え、奥野信太郎先生のところへ行き「先生、お願いします」とお願いしたところ、快く引き受けていただきました。あんまりうれしくて話し込んでいたら、「君たち、僕は1回講演すると30分でいくらもらえるんだよ。人の時間をどう思っているんだ」と言われました。

でも、その時に機関誌のためにいただいた「ユーモアの裏付けはペーソスであり、そしてそれはやがて高い文明批評につながらなければならない」という言葉はいまだに僕の中に残っています。漫画というのは、ただギャグで人をからかったり、揶揄したりするだけではなく、ユーモアの陰にあるペーソスとかいろいろなもの、つまり人間というものを知った上で描かなければいけない。社会的な意味としてはそれが文明批評につながらなければならない。そのようにしみじみと思い、今でもそう思っています。

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