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【講演録】反グローバル主義とポピュリズム政治

2019/08/09

両大戦期──エリートたちの友愛と挫折

金本位制と大恐慌
第2幕に入りましょう。第1次大戦後、各国のエリートは国境を越えた友情関係を築き、国際秩序を回復しようとしました。しかし、彼らの努力は1930年代末の大恐慌によって挫折します。

その理由と経緯を簡単に説明します。第1世界大戦後、分断された世界経済をもう一度統合するには、各国が共通の基盤(例えば「金」)に基づいた通貨制度を構築する必要がある、というのがエリートたちの考えでした。加えて、戦費調達のために国債や紙幣を乱発したために各国の財政規律も失われていたので、その規律回復のためにも「金本位制」、すなわち自国の通貨がいつでも約束された量の金と交換できるシステム(金兌換制度)が必要だと、彼らは考えました。

もちろん、通貨と金をいつでも交換できるようにするわけですから、金本位制の採用には金準備が必要です。デビッド・ヒュームのような古典的な経済理論に従えば、金準備を蓄えるために、各国が輸出超過(貿易黒字)によって金を獲得し、十分な金を蓄積したうえで金兌換をスタートせよということになります。その際に輸入超過(貿易赤字)を計上し、他国の金準備の蓄積を助けるのは、金産出国です。

ところが、第1次世界大戦直後のドイツは賠償金の支払い義務を負い、労働人口も減り、領土も失っているため、輸出能力がありません。戦勝国のフランスやイギリスも疲弊しているうえ、米国への債務を抱えています。主要国が輸出超過を継続する能力がないのに、どうやって金本位制を再開できるか。実は、そこに「金を借りる」という裏道があったのです。つまり、戦争で傷つかなかったアメリカのウォール街から資金を借りる。借りた金を準備にして、金本位制を再スタートさせるのです。

例えばドイツは、ベルサイユ条約の決めた賠償金が払えず、財政が傾き、紙幣増発に訴えたため、1923年にハイパーインフレーションを経験しますが、それをきっかけにウォール街が資金を供給して、それでベルサイユ条約の賠償金を支払うという国際協定が立ち上がります。ドーズ案です。ウォール街はドイツの賠償金を立て替えるだけではなく、復興のための長期資金まで供給します。そのため、ドイツのみならず欧州各国の経済が回復していきます。

一方、アメリカ国内でも、金利条件のよい投資先が生まれたため投資ブームが起こります。例えば、ドイツの学校の校舎を建て直したい。「いいですね。ついでにプールもつくってはどうですか」という具合に、ウォール街は積極的に資金を貸し付けていったのです。

この流れの中で金本位制は、「国際投資のリスクが軽減した」という心理を、投資家に植え付けることに貢献しました。実際にはこの心理は錯覚だったのですが。最近でいうなら、対外債務不履行の常習犯だったギリシャが、欧州共通通貨「ユーロ」を採用した途端、投資が安全になったと投資家が錯覚し、金利が大幅に下がったのと同じ展開です。

しかるに、実際に金兌換をする国が世界に広まっていくためには、主要中央銀行間の協力が鍵になりました。各国の中央銀行は、金の兌換に応じられるよう準備していますが、銀行の取り付けや、貿易赤字が長期に続くことなどによって、金準備が危険水域に低下することがあります。それに備えて、各中央銀行は相互に金あるいはドルを貸し合えるよう取決めを交わします。これが金本位制に基づいた各国の、ひいては国際的な経済秩序の維持に必要だったのです。そして、こうした協力関係は、各国の金融エリートたちによる個人的な信頼関係と友情に支えられていました。

当時の代表的な金融エリートは、アメリカのニューヨーク連邦銀行総裁ベンジャミン・ストロング、ドイツのライヒスバンク総裁で大蔵大臣も務めたヒャルマール・シャハト、イギリスはイングランド銀行総裁モンタギュー・ノーマン、そしてフランス中央銀行総裁エミール・モローなどです。この4人の友情関係が世界の金融秩序の背景にありました。

しかし、1928年にストロングが死去します。前出のフリードマンは、ストロングの死こそが大恐慌の最大の原因だと指摘します。と言うのも、彼の死の前後で、アメリカの金融政策の方針ががらりと変わるからです。1927年にイギリスの貿易収支が悪化して、金が流出します。ストロングはその時、アメリカの金利を下げ、より高い金利を求めて資本がロンドンへ向かうようにし、イギリスを助けました。ところが、金利の低下は、アメリカ国内で投資ブームを喚起し、バブルを生みます。1920年代のアメリカはT型フォードに代表されるモータリゼーションが進み、その恩恵でフロリダでは不動産ブームが起きていました。さらにNBCなど3大ラジオ局が創設されるなど、投資案件は豊富で、これに低金利が加わると、バブルとなるわけです。

ストロングが金融政策を指導していた時、バブルの進行を苦い思いで見つめていた連銀首脳は、ストロングの死後、金利を引き上げる。この結果、国内のバブルも潰れますが、海外に流れていた金もアメリカに逆流し、世界経済がひっくり返ったのです。皆さんがカーペットの上に立っていて、私が1、2の3でカーペットを引っ張ったら、皆さん一斉に転びます。それと同じことが当時起こったのです。

第2次世界大戦へ
ところで、ストロングは1920年に来日しており、日本銀行の総裁などを務めた井上準之助とも親交を結びます。日本は第1次世界大戦中に輸出を大きく伸ばし、外貨を保有していたため、ストロングは日本も国際金融の仲間に引き込もうと考えたのです。

井上準之助は日本の金本位制復帰を目指した人ですが、彼は金本位制を採用すればアメリカの資本が日本に流入すると期待していました。海外からの投資を梃にして、経済ブームを起こそうと考えたのです。ところが1929年、ウォール街で株価の大暴落が起こったので、米連銀は金利を引き下げます。井上は、アメリカの金利がこれだけ下がれば、日本の金が流出することはないだろうと読んで、金本位制を強行する。1930年のことです。ところがその時には国際資本市場の状況は一変していました。投資家が危険回避的になったのです。彼らはちょっとのサインで外国投資を引き上げる。1931年になると、最初にオーストリア、次にドイツへと危機が広がりました。この年には日本からも金が急激に流出し、大恐慌に飲み込まれました。

話が少し逸れますが、日本が戦争に突入しない道はなかったのでしょうか。もしも井上の目算通り、アメリカの資本を日本の国内産業へと呼び込むことで、高度経済成長がその時点で生まれていたら、あるいは戦争に向かう歴史の流れが変わっていたのではないかと思います。

以上の説明は、マクロ経済学的な要因、つまりアメリカから他の国々に向けての対外投資が、初めは急膨張し、次に大幅に縮小し、ついには逆流したことによって世界的な大恐慌が起こったとするものです。しかし大恐慌については、もう1つの良く取り上げられる考え方があります。主要国間の高関税を武器にした「貿易戦争」が大恐慌を招いたというのです。現在の世界も、アメリカのトランプ大統領のお蔭で関税戦争に巻き込まれていますから、検討に値します。

結論から言うと、大恐慌による失業率の高騰、デフレ、経済スランプなどを招いたのは、やはりマクロ的要因で、貿易戦争の影響はあまりありません。他方で、貿易戦争はただでさえ分断されている世界を、ますます分断させ、ブロックごとに分離される状態を生み出した。ただ、そのブロックは、ポンド圏、マルク圏など、基軸通貨ごとにまとまっていたので、やはり国際通貨としての「金」がお役御免になった影響を反映しています。大恐慌の結果、資本逃避で金がなくなったので、どの国も金本位制を放棄せざるを得なかったのです。

図2は、世界経済の分断を表します。具体的には、地理的距離の大きさが二国間貿易に与える影響を示しています。一般に二国間の距離が大きいほど、二国間貿易は減少するという結果が過去の実証研究で得られています。図では、距離の影響を受けるほど折れ線が上に行き、影響が少ないほど下に向かいます。この図は、金本位制が壊れた後に生じた、いわゆるブロック経済の影響を明示しています。

まず、右肩下がりの太線はコモンウェルス、つまりイギリス連邦のポンド圏です。ここでは距離の影響が全く働いていないのが分かります。金やドルを持っていれば、近くの国と貿易するのが一番便利なのですが、大恐慌の結果、イギリスは金もドルも持てなくなり、自国通貨ポンドで決済できる相手としか貿易できなくなった。その結果、世界的に広がるイギリス連邦間での貿易に移行したのです。一方、その上の淡い折れ線は、ドイツのマルク圏です。ドイツはイギリスのように世界的に展開する経済圏を確保できなかった。それゆえドイツはマルク圏内で自給体制を作れず、それを作ろうと思えば軍事侵略が必要になります。

日本は、ドイツよりも遅れて、二・二六事件の起こった1936年から円ゾーンをつくろうとしますが、不十分で円小切手で買えるものは少なく、とくに石油が買えませんでした。それで第2次大戦がはじまり、欧州の混乱を利用し、石油のある蘭領インドネシアに軍事進出を考えます。

以上が第2幕です。うまく行けばストロングたち国際エリートは、ナショナリズムを抑えられたかもしれませんでした。なぜなら第1次大戦の破壊を経験し、特に欧州では厭戦気分が強かったからです。金本位制の下で世界景気が順調に回復していたら、エリートはグローバル化の軌道に世界経済を載せられたかもしれない。だが、いつの時代も借金の上に成り立つ経済は不安定です。米国発金融危機が世界を襲い、グローバル経済が土台から崩れると、ふたたびナショナリズムが台頭し、世界は2度目の大戦争に突入することになります。

図2  二国間の距離がブロック経済圏内貿易に与える影響(1920~1939年)                注: 二国間の距離が各年の貿易額の変化に与える影響を回帰分析した(1920年を100とする)。      出所: David S. Jacks and Dennis Novy (2019) “Trade Blocs and Trade Wars during the Interwar Period,” CAGE Working paper 424.
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