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【講演録】反グローバル主義とポピュリズム政治

2019/08/09

ドイツのナショナリズム
こうした変化は、ナポレオン軍に占領されたプロイセンにも波及しました。その特質を、クリストファー・クラークは次のように指摘します。

「2つの理由で、ナショナリズムは潜在的に急進的なものだった。第1に、ナショナリストは、自由主義者や、急進主義者と同様、君主ではなく、国民の声を代弁していた。
自由主義者にとって国民とは、教育を受け、税金を支払う市民からなる政治的集団だった。ナショナリストにとって、それは共通の言語、文化を持つことによって定義される『民族性(Ethnicity)』であった。この意味において、リベラリズムとナショナリズムは思想的縁故性を持つ。
実際、ナショナリズムは、その基盤が、富裕で、教育が高い大都市の住民であるリベラリズムと比べ、ある意味でより包括的だった。なぜなら、ナショナリズムは、同一の民族集団のすべての構成員を包摂するからだ。その点で、19世紀中ごろの急進主義の持つ民主主義的性格と近似したところがある。多くのドイツの急進主義者が、仮借のないナショナリストになったのは偶然ではない」(『Iron Kingdom(鉄の王国)』)。

現在、私たちが目撃しているのもナショナリズムを背景にしたポピュリズムです。アメリカを見ても、民主党であれ共和党であれ「国民の声を聞く」という態度は共通しています。ただし、都市を地盤にするのが民主党の左派であり、田舎を代表するのが共和党、ことにトランプ氏の支持層である人々だというわけです。

クラークは、「ドイツの統合」についても興味深い指摘をしています。すなわち、「欧州の多くの地において、国民国家創設のビジョンは政治的地図の根本的な変更を意味したために、ナショナリズムは『破壊的』であった」。ただし、「ハプスブルク帝国にとってナショナリズムが帝国の政治的分解を意味したとしても、ドイツにとってはその意義は『統合的』だった。なぜなら、それは本来1つのものとしてあるべき祖国ドイツの破片を1つにつなぎ合わせる目的を持っていたからだ」と(同前)。

図1を見ると、プロイセンの上からのエリートによる統治と下からのナショナリズムの突き上げとの葛藤がよく分かります。濃いアミがプロイセンです。真ん中が空いた、不自然な形をしています。これはナポレオンを破った後のウィーン会議(1815年)でロシア、オーストリア、プロイセンが中心になって領土分割を行った結果です。ポーランドがオーストリアとロシアに割譲され、プロイセンは代償に石炭や鉄鉱資源が豊富なライン川沿いの地域を獲得します。それによって、プロイセンの工業化が進んだのです。

これは君主が軍隊を操り、投資としての戦争で領土を拡張した時代の名残で、国民の文化、言語、宗教を無視しています。例えば、ライン川流域はカトリックが多く、プロイセンはプロテスタントが多い。そこから民族性に基づいて領土を再編成しようという民の声が起こる。単にプロイセンの西と東の領土をつなぐのではなく、ドイツ全体を統合して、民族性に基づく国家を形成する動きが起こるのです。

フンボルトの教育改革とナショナリズム
当時のプロイセン社会の変化について、クラークは「『臣民(subject)』は、国家の『市民(citizen)』に生まれ変わる必要がある」が、当時の改革者たちが「プロイセンの市民たちを国家の直面する問題へと立ち向かわせる」には「行政的、法的な改革だけでは不十分」であり、「それらの改革を広範な教育プログラム改革と組み合わせることで、より一層のエネルギーを彼らに与えなければならない」ことを理解していたと言います(同前)。

そこで、プロイセン王国の教育システム改革を任されたのが、ヴィルヘルム・フォン・フンボルトでした。彼は、「自由主義的な教育プログラムを採用することによってプロイセン王国の教育を根底から変革」し、それによって「王国は初めて、欧州の進歩的教育の最新の成果に相応した単一の標準化された公共教育を確立」します。そしてフンボルトは「教育は今後、技術的、職業的なトレーニングという概念とは別個なものになる」、つまり「教育の目的は、靴屋の子供を靴屋にすることではなく、子供たちを市民に変えていくこと」であり、学校は、学生に「自分で考え、自ら学ぶ能力」を吹き込む場とならなければならない。そして、「自ら学ぶのに十分な能力を先達から学ぶことで、成熟した市民が誕生する」と彼は記すのです(同前)。

フンボルトと福澤の教育思想
このフンボルトと同様の考え方が、福澤の教育思想にも見受けられます。つまり「武器を取る国家」という考え方です。『学問のすゝめ』には、この思想が、明確に示されています。

「一身独立して一国独立する事
国と国とは同等なれども、国中の人民に独立の気力なきときは一国独立の権義を伸ぶること能わず……
仮にここに人口100万人の国あらん。このうち1000人は智者にして99万余の者は無智の小民ならん。智者の才徳をもってこの小民を支配し、あるいは子の如くして愛し、あるいは羊の如くして養い、あるいは威し、あるいは撫し、恩威ともに行われてその向こうところを示すことあらば、小民も識らず知らずして上の命に従い、盗賊、人ごろしの沙汰もなく、国内安穏に治まることもあるべけれども、この国の人民、主客の二様に分かれ、主人たる者は1000人の智者にてよきように国を支配し、その余の者は悉皆何も知らざる客分なり。すでに客分とあればもとより心配も少なく、ただ主人にのみよりすがりて身に引き受くることなきゆえ、国を患うることも主人のごとくならざるは必然、実に水くさき有様なり。国内のことなればともかくもなれども、いったん外国と戦争などのことあらばその不都合なること思い見るべし。無智無力の小民等、矛をさかしまにすることもなかるべけれども、われわれは客分のことなるゆえ一命を棄つるは過分なりとて逃げ走る者多かるべし。さすればこの国の人口、名は100万人なれども、国を守るの一段に至てはその人数はなはだ少なく、とても一国の独立は叶い難きなり」(『学問のすゝめ』三篇、『福澤諭吉著作集』より)。

だからこそ、日本の独立を守るには、「自由独立の気風を全国に充満せしめ」なければならないと説くのです。

図1 プロイセン周辺地図(1840年頃)
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