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【講演録】反グローバル主義とポピュリズム政治

2019/08/09

ブライアンとトランプ大統領の類似?
ブライアンとトランプ氏を比較すると、類似点があります。1つ目は「反エリート主義」です。当時、アメリカでエリートと言えば、ウォール街との関係が連想されました。

2つ目は「一国主義」です。つまり、アメリカは自国のことに専念し、世界規模の問題には介入するべきでないという立場です。彼は第1次世界大戦期にウッドロウ・ウィルソン政権の国務長官に就任します。そのとき、アメリカ人が大勢乗っていたイギリスの客船ルシタニア号がドイツの潜水艦に攻撃されて沈没した事件が起こり、ウィルソン政権は対独参戦に傾くわけです。ブライアンはこれに反対して国務長官を辞任してしまいます。

ただし、同じ一国主義と言っても、ブライアンの小アメリカ主義に対し、トランプ氏は大アメリカ主義に立つと言えるでしょう。トランプ氏が国際的な義務を拒否することでアメリカの威信が高まると考えるのに対し、ブライアンはアメリカがそもそも国際的な問題に関わらないことを主張します。もしブライアンの主張が通り、アメリカが第1次世界大戦に参加しなかったら、どうなっていたでしょうか。

もう1つの違いは、ブライアンは非常に道徳家で、禁酒主義者でもありました。『オズの魔法使い』に戻ると、ドロシーは愛犬トト(TOTO)を連れているのですが、この名前は禁酒主義者(Teetotaler)から来ています。つまり、『オズの魔法使い』はミッドウエストの国民の伝統的価値観を掲げたブライアンが、大統領になることを目指してワシントンに向かうという比喩になっているのです。

では、なぜトランプ氏は選挙に勝ち、ブライアンは負けたのか。ブライアンの敗因については、経済学者のミルトン・フリードマンが『Money Mischief(貨幣の悪戯)』という著書で分析しています。大統領選で、ウォール街に支持された共和党側は、「銀を導入すると金の価値が下がり、金融不安が起こるかもしれない」と主張し、富裕な国民の不安をあおる巧妙な戦術を取ったのです。

最近のフランス大統領選挙でも、ポピュリストのルペン国民戦線党首が「ユーロ離脱」を政策に掲げたものの、通貨をフランに戻せば資産価値が激減するという恐怖を仏国民が抱くことになり、支持が弱まりました。対立候補マッキンリーにはこういう有効な恐怖戦術があった。ところがブライアンは銀本位制導入という1つの政策だけに固執し、有権者の支持を引き留められずに敗北したのです。

苦悩するエリート、再び
この時代を締めくくる前に、もう一度、伊藤博文に戻ります。1881年のいわゆる「明治14年の政変」で大隈重信らが政界を追放され、伊藤が政権を掌握します。そして翌1882年、国会開設に向け憲法制定の準備を進めるため、再びドイツを訪れるのです。

伊藤はまず、プロイセンでビスマルクに面会しますが、ビスマルクは、「プロイセン憲法の最良の点は、すでに存在することだ」と。つまり、存在しないなら一から考えなければいけないが、すでに存在するのだから、それを使えばよいという考え方なので、憲法を一から作ろうとしている伊藤にとっては参考になりませんでした。

次いで1883年、伊藤はヴィルヘルム皇帝(1世)とも面会します。徹底した王権主義者であるヴィルヘルム皇帝は「日本にして若し已む得ずして国会を開くに至るとも、国費を徴収するに国会の承認を必要とすとの規定を設けざるを可とす、かかる規定はことに内乱を醸す源となるべき」(『伊藤博文傳』春畝公追頌會編)、つまり、議会をつくっても予算権だけは渡すなと言うのです。これでは、国会開設の意味がありません。伊藤は君主の側から政治をする点でビスマルクと立場が同じなのですが、ビスマルクやヴィルヘルム1世と比べれば民意の取り入れに前向きでした。

伊藤は落胆しますが、ウィーンで法学者のローレンツ・フォン・シュタインに会い、彼の助言を受けて大日本帝国憲法の構想を練り上げたのでした。

不眠を重ねながらビスマルクも伊藤も平和が維持できる仕組みを模索する。ガラス細工のような仕組みが堅持されていた間は戦争が起こらず、経済が発展しました。しかし、いつも天才を必要とするような仕組みは永続しません。

かつてビスマルクは日本の使節に「私の国は、初めは弱かった」と言いました。実際彼は弱い時代を知っており、父親の世代の時にはナポレオンに攻め込まれた経験があります。ですから、ドイツ統一を果たすと、それ以上の対外拡張政策は回避しようと努めました。しかし、プロイセンが大国になると、人々の考え方も変わり、大国同士の戦争をやむを得ない歴史の流れととらえるようになります。

とくにビスマルクが絶対回避しようとした露仏の軍事同盟を、彼の後継者はやすやす認める。オーストリアと軍事協力する以上、バルカン半島でそれと対立するロシアと組むのは義に反するという考えからです。その結果、ロシアとオーストリアの衝突から発生した第1次世界大戦に、ドイツは参戦せざるを得なくなる。第1次大戦によってドイツ、オーストリア、ロシアという3つの帝国が崩壊し、君主のエージェントだったエリートたちも、彼らが維持しようとした世界秩序とともに消滅するわけです。

戦争とグローバル化
この時代の偉大なエリートたちは国際均衡に留意し、戦争を避けようとしたのですが、彼らは君主のエージェントで、民の声を代表していない弱みがあった。反対に国家間の総力戦につながりかねないナショナリズム思想の推進者には、民の声に立っている強みがあった。結局は、何もかもナショナリズムに巻き込まれ、戦争につながってしまうのです。グローバル化さえ戦争の道具になりました。

船や鉄道といった交通手段の発展、国際金融、国際貿易はグローバル化の象徴です。それが戦争に動員された。日露戦争では、日本でもロシアでもない、第三国である満州や朝鮮半島に200万人以上の兵隊が集結しました。輸送手段の発達がなければ、とうてい無理です。とくにロシアが100万を超える兵力を送り込めたのは、シベリア鉄道のためです。

巨大戦争を可能にした要因としてもう1つ、金融市場のグローバル化が挙げられます。シベリア鉄道も、フランスの資本市場から資金を調達できたからこそ敷設できました。

日本も、よく知られるように、高橋是清がロンドンやニューヨークで国債の発行に成功したからこそ、戦費を調達できたのです。冒頭で、ケインズの「ロンドン市民はベッドの中で紅茶をすすり」ながら、「自分の財産を世界のいたる所」に投資したという言葉を紹介しましたが、その投資の一部はロシアと戦争をするために発行した日本国債に向かっていたのです。

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