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【講演録】ベトナム、中東、そして日本における私の旅路──未来の若者たちへのメッセージ

2018/10/08

パキスタンでの教訓

しかし、ムラー・オマルのことを考えれば、ムシャラフ大統領のことも考えざるを得なくなり、皆さん全員にとってのもう1つの教訓へと私を導くことになりました。私たちはパキスタンとインドの間で大きな困難を抱えていました。それは、カシミールのテロリスト・グループが議事堂を攻撃することでインド政府の指導部を排除しようとしており、インド政府がパキスタン国境に100万人を配置することによってそれに反応し、パキスタンがまったく同じように100万人を配置し、相互に核兵器の使用の脅しをかけ始めるという事実に主として起因していました。そして、それぞれの議会における言葉は、世界の他のどこの言葉とも違っていて、ほとんどの人を震え上がらせていました。インドのニューデリーとパキスタンのイスラマバードの大使館の多くは人員を引き上げていました。核兵器の直撃を受けたり、核の雲が彼らを壊滅させたりしないようにするためです。私たちアメリカは、双方の不満を発散させるためにできるだけのことをしました。

それから小さなテロ事件がありました。インド人たちは私にデリーへ来るように求めました。彼らは頭に血が上っていて、こう言いました。「見てくれ、分かるだろう。貴国の情報機関は知っているだろう。私たちも分かっている。ここに写真もある。カシミールには13のテロリスト・キャンプがあり、パキスタンによって運営されている。私たちはそれを変える必要がある。変わらなければならない。テロリスト・キャンプを減らす必要がある」。インド人たちでさえ分かっていたのです。パキスタン人にすべてを除去するよう頼むのが妥当ではないということを。

そこで私は対応すると言い、パキスタンのムシャラフ大統領に会ってこれらのキャンプについてやり合いました。彼にアメリカが撮った写真を見せ、キャンプについてのアメリカの秘密情報を開示しました。秘密情報の質がとても良かったので、カシミールとパシュトゥンの兆候について見ることができ、テロリストたちを訓練しているパキスタン人将校たちの階級構成も分かり、何が起きているかについて争う余地はなくなりました。適切なやりとりの後、大統領は、「オーケー、分かった。何が望みだ」と言いました。私は言いました。「明日までに、この特別のキャンプがなくなっていることを示す必要があります。それを取り壊さなければなりません」。彼は「オーケー」と言いました。

私は簡単な勝利に得意になっていました。私はインド側に戻り、インド人に「見てください。簡単でしたよ。今やキャンプは12ですよ」。すると彼は、「ノー。パキスタン人はそのキャンプを取り壊したが、4キロメートル先で造り直した」と言うのです。私はムシャラフに腹を立てたりはしませんでした。自分に腹を立てました。イスラマバードに戻ってムシャラフ大統領に会い、「オーケー、前回はあなたが勝ちました。今度は私がもう一度尋ねる番です。この13番目のキャンプを取り壊さなければなりません。明日からは12しかないということです。1カ月、2カ月、5カ月、どんなに長くなろうと12を超えることはありません」。彼は合意し、それは状況を鎮めるのに役立ちました。

ここで提示しようとする教訓は何でしょうか。つまり、私はミスをしたということです。皆が私と同じように物事を見ると私は想定していました。皆が私と同じように言葉を理解すると。しかし、そうではなかったのです。皆さんに申し上げたいのは、人生を歩む上で、自分とまったく同じように人々が物事を見ると想定してはいけないということです。

日本への想い

最後に、日本について少し話すよう求められています。私はなぜこんなに日本に興味を持っているのでしょうか。そこには歴史的な理由と個人的な理由があると言うべきかもしれません。歴史的な理由とは、ペリー提督が来航し、1854年に日米和親条約が結ばれた時代から、アメリカは太平洋における関係の中心に日本があると常に見てきたということです。太平洋戦争の4年間を除き、1854年以来、ずっとそうでした。歴史的にそれは真実であり、日清戦争を終わらせた下関条約、日露戦争を終わらせたポーツマス条約を通じてもそうでした。歴史的にアメリカの国益は日本とともにあり、日本もまた多かれ少なかれ大部分の国益はアメリカとともにあると判定してきました。

個人的な理由もあります。私が最初に日本に来たのは1967年のことです。私は駆逐艦に乗って横須賀に着きました。すべてがうまくいっていました。ベトナムへ向けて海に戻り、1968年1月に佐世保に戻りました。埠頭を挟んで向こうにとても不思議な艦艇を見つけました。そんなものは見たことがありませんでした。私は将校だったのでその艦艇まで歩いて行くと、下士官がいました。デッキの見張りの責任者でした。海軍のプロトコルとして敬礼し、乗船する許可を求めました。何しろ私は将校だったのです。彼は「許可はできません」と答えました。おかしなことだ、と思いながらも自分の艦に戻り、それについて思いをめぐらせました。翌日、埠頭を見渡すと、その艦艇はいなくなっていました。それはプエブロというアメリカ海軍の情報収集艦で、そのすぐ後に北朝鮮に拿捕されたのです。

しかし、私の艦は、ベトナム沖にいても、驚くほどの頻度で日本に出たり入ったりしていました。そして、ベトナムを行き来していた6年間で、必ず、日本に立ち寄っていることにも気づきました。日本の位置には何かしら中心となるものがあると理解できました。

人々は「アーミテージ、なんでまたそんなに日本を愛しているんだい」とか「日本が本当に好きなんだね」などと言います。たくさんの理由から私は日本の人々が好きです。私はいつも日本のカウンターパートになる人物が好きなのです。私をひどく扱ったり、真実ではないことを私に言ったりするカウンターパートは、外務省にも防衛省にも、日本には決していませんでした。彼らが私についても同じことを言ってくれると希望しています。

しかし、たくさんの個人的な理由を差し置いても、日本については語るべきことがたくさんあります。それほど日本を好きな本当の理由は、私が自分の国を愛しているからです。自分の国を愛しているアメリカ人ならば、できるだけ日本と密接かつ合理的な関係を築こうとするはずです。私の視点からすれば、これこそがアジアとの鍵なのです。

さて、私が自分の人生から引き出し、この1時間でお話しした教訓をまとめなければなりません。第一の教訓は、とても明白です。分かれ道に来たら皆さんはどちらをとるか、決断をしなくてはなりません。正しい選択も間違った選択もありません。ただの決断です。そして人生を歩まなくてはなりません。学界に進もうと、実業界に進もうと、政界に入ろうと、折に触れて分かれ道にたどり着きます。ままあることだし、奇妙でもなく、それを受け止めなくてはいけないのです。進むべき正しい道も、間違った道もありません。

第二に、私の人生において、その場その場で見えるほどに、良いことも悪いこともなかったという結論に達しています。何事も極端に幸福だと思ったり、極端に悲しくなったりする必要はありません。時間が経てば、何事も最初に考えるほどには、良くも悪くもないということです。

次に、物事はいつも朝になると「まし」になって見えるようになるということです。夜明けには活力を呼び戻す何かがあります。ベッドに入る際、どんなにひどい問題があなたの心に残っていたとしても、たいていは、あなたは眠りに落ち、眠った後に朝になって目覚め、物事はほんの少し良くなって見えます。

最後に皆さんに残しておきたいことを言います。人生を歩む上で大事なのは、他者を扱う際、彼らにふさわしいと思うよりもほんの少しだけ親切にするということです。誰かに歩み寄っていったとき、その人が不機嫌で、私に意地悪だったとしたら、彼に意地悪を返すべきでしょうか。いいえ、そんなことをすべきではありません。私がすべきことは、彼が私を扱ったよりも少しだけ親切に彼を扱うことです。彼の人生において何が起きているのかを知らないからです。私に言わせれば、それが人生最大の教訓です。

(本稿は、2018年6月8日、三田キャンパス南校舎ホールで行われた、リチャード・L・アーミテージ氏の名誉博士号授与記念講演を、土屋大洋慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科教授が訳出し、一部を修正したものである。)

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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