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【講演録】ベトナム、中東、そして日本における私の旅路──未来の若者たちへのメッセージ

2018/10/08

ベトナムで得た教訓

しかし、現実にはユーモアなど微塵もありませんでした。ベトナムでの2回目の勤務のときのことです。『地獄の黙示録』という映画を見たことがありますか? その中のパトロール・ボートを覚えていますか? 140人のベトナム人と20隻のそういったボートで構成されている部隊があり、私は上級アドバイザーでした。タイニン省の川でカンボジアとの国境地帯に数カ月滞在し、そこでベトナム人の船乗りたちが、装備を適切に使っているか、訓練を増やす必要があるかを確かめるため、パトロール・ボートを替えながら時々出かけていました。

その日も午後早くに出かけました。暑い日で、ボートの船長は、岸辺の木にボートを寄せても良いかと私に聞きました。日蔭に入れるからです。私はよく考えることもなく、反対もしませんでした。一人の船員が舳先にいました。ベトナム人の船員で、彼は私たちを木に近づけようとしていました。これまでもパトロール・ボートはよくこの木に結びつけられていたようでした。そして、まさに敵がその木に罠の爆弾を仕掛けていたのです。彼はそれに触れてしまいました。それによって彼の耳が吹き飛び、目が吹き飛び、鼻が吹き飛び、片手ともう一方の腕の半分が吹き飛び、彼の頭と胸が焼けて割けてしまいました。

それを見て私たちは引き返し、基地に大急ぎで戻ることにしました。私は彼を自分のジープに運び、後部座席を取り外して彼を乗せ、もう一人の船員に軍病院までジープを運転させました。私は激しい苦痛に苦しむ船員とともに後部座席にいました。その痛みを想像できるでしょうか? 当時のすべての軍士官がそうしていたように私はモルヒネの注射を持っていました。それは軍士官や下士官に与えられていました。モルヒネ注射は頭部のケガには使ってはいけないことになっていましたが、この男はひどく苦しんでおり、私は敢えてそれを使いました。そして、軍の規則では、誰かに注射した場合には、それをユニフォームのシャツにピン留めし、後からそれを見た医者が、患者にモルヒネが打たれたことが分かるようにしていました。ところが、彼はシャツを着ていませんでした。吹き飛ばされてしまったからです。私は彼のズボンにピン留めをしました。

それから5分、8分と時間が経ちましたが、モルヒネは彼の助けにならず、もだえ、叫び、ひどいありさまでした。そこで私は決してやってはいけないことをやりました。2本目の注射をしたのです。彼に注射した後、使った注射針を取り、ユニフォームにピン留めし、2本のモルヒネ注射が打たれたことを医者が分かるようにしました。

それから私たちはさらに進みましたが、彼はまったく良くならず、私はまったくひどいことをしたのです。実に3本目のモルヒネ注射を打ったのです。それをズボンにピン留めしました。私は何をしようとしていたのでしょうか。明らかに、彼を安楽死させようとしていたのです。そんなケガをした状態で生きたいと思う人がいるでしょうか? タイニンの軍病院に着いたとき、なんと彼はまだ生きていました。病院の近くでは大きな軍事作戦が進行しており、たくさんのベトナム人のケガ人がいました。

ひどいケガをした男を運び込むと、医者は一瞥して、「彼をあそこに置いてくれ。彼の順番はトリアージ方式でやるから」と言いました。それは、確実に死ぬと思われる患者に注意を向けるよりも、見込みがある患者を優先して治療するということです。そして、私は急いで基地に戻りました。暗くなった後の道路は危険だったからです。

4、5カ月が経った後、基地にいると、男を連れた女性が現れました。その男が誰だか分かりました。私がモルヒネを3回注射した男でした。しかし、彼が何を求めているのか分かりませんでした。なぜ彼が来たのか分かりますか? 彼らはサイゴンから90分かけて、私が彼の命を救ったことに感謝するために戻って来たのです。私の目から涙が溢れました。私は彼の命を救おうとしたのではなかったからです。彼を安楽死させようとしたのです。

私はどんな教訓を得たのでしょう。第一に、とても明らかなことですが、神様の真似事をしてはいけないということです。この世界には、一人の神様の余地しかないのです。皆さんの信じる宗教がなんであろうと、1つの崇高な存在の余地しかないのです。しかし、もう1つの教訓も得ました。片腕を全部失い、もう片方の腕を半分失い、目も見えず、片方の耳がようやく聞こえ、歯もなく、ひどいやけどを負った男が、命を救ってくれたことに感謝するために私のところに来たのです。人間の精神とはなんと不屈なのでしょうか。とても驚くべきことでした。学生の皆さんへの2つの教訓は、神様の真似事をしないこと、そして、人間の精神とは不屈なものだということに気づくことです。

飛行場からの脱出

私は1975年3月にベトナムを抜け出し、翌4月にベトナムは共産主義者の手に落ちました。ワシントンの人たちに何が起きているかを警告したいと思い、私は抜け出したのです。この国が陥落しようとしているのに誰もまったく注意を払っていないように思えました。ようやく話を聞いてくれる人を見つけました。彼はすぐにワシントンに来るよう言い、ベトナムでのミッションを受けてくれるかと聞きました。「もちろんです。どんなことですか」と私は尋ねました。「他の何人かとベトナムに戻り、私たちが持ち出すことができない装備が敵の手に渡らないようにして欲しい」と彼は言いました。つまり、ワシントンの人たちは心の中で、ベトナムは陥落するだろうと、すでに理解していて、北ベトナムの手に大量の装備が渡ってしまうことがないようにしたかったのです。

そこで私はベトナムに戻り、4月28日までの3、4日間、自分の仕事をした後、ビエンホア空軍基地に行くよう言われました。そこは、ベトナム戦争中の一時期、世界で最も忙しい空軍基地でした。朝、2人のアメリカ人兵士とともに降り立ちました。私はすでに民間人でしたが、基地は完全に静かになっていました。完全に見捨てられた空軍基地でした。とても薄気味悪いものでした。とても皆さんに説明できません。私たちは状況を受け入れ、隅のほうに向かいました。そこにはサイゴンまで持ち帰るか、でなければ破壊しなければならない特別な装備があり、それを集め始めました。

その朝の間に、1、2名の南ベトナム、つまり私たちの同盟国の兵士たちに出くわしました。彼らは敗残兵で、置き去りにされており、ビエンホア空軍基地の建物に隠れていました。彼らはアメリカ人を見て、ここから抜け出す方法があるに違いないと見て出て来たのです。昼過ぎまでに30人の南ベトナム人が出て来ました。同時に北ベトナム人が砲撃を始め、近寄って来ました。私は彼らが攻撃してきたとは言いたくありません。軍事用語で言えば、彼らは探索していたのです。私たちがどれだけの兵力を持っているか見ようとしていたのです。

私は30人のベトナム人たちに排水溝に入れと言いました。ベトナムのすべての建物には、雨量が多いことから、周囲に排水溝があります。それは隠れる場所になります。兵士たちはそこに入り、北ベトナム人に向けて撃っていました。その間に私たちは仕事を進めました。私はサイゴンのボスから軍事無線で連絡を受けました。彼は、「リッチ、お前のためにヘリコプターを送る」と言いました。「すみません、ボス。ヘリコプターじゃダメです。30人の兵士が一緒にいます。北ベトナムを追いやるためにともに戦っています」。彼は「リッチ、理由は言えないが、お前はすぐそこを出なくちゃならない」と言うので、「できません。私がヘリコプターで脱出しようとしたら彼らは私を撃つでしょう。私が同じ立場だったらそうします」と答えました。

すると彼は悪態をつき、無線機の受話器をガチャンと置きましたが、私たちを迎える飛行機をタイのCIA(中央情報局)でなんとか見つけました。C−130輸送機で、これは自衛隊の皆さんにはとてもなじみがあると思います。荷物を運ぶための固定翼機で、33人の人間を確実に運ぶことができるものでした。飛行機が着陸し、私たちがいる場所に近づいてきました。しかし、決して停止せず、くるりと回転したので、私たちはみんなそれめがけて走ると、後ろの昇降口が下がったのでさらに走りました。飛行機が離陸し、飛行場の上で一気に上昇しました。私たちが窓から下を見ると、北ベトナム人たちが押し寄せるところでした。

12分後、問題なくサイゴンに着陸しました。ボスはこう言いました。「よし、お前にこれを見せてやる。お前に言えなかったことだ」と言って紙片を私の手に押しつけました。それは北ベトナムの秘密情報の傍受で、「ビエンホアに敵がいるから、そいつを殺せ」と書かれていました。つまり、彼らは私を殺すチャンスをもう少しのところで逃したのです。しかし、午後6時になって、私たちは明日ここを去るとボスは言いました。(ベトナム戦争の形勢が不利になり)国全体が緊急避難を始めていました。

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