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【講演録】ベトナム、中東、そして日本における私の旅路──未来の若者たちへのメッセージ

2018/10/08

ベトナムからの撤退

しかし、ベトナム海軍を避難させる計画を私はまだ完成させていませんでした。なぜかと言うと、その時点ではまだ反逆罪だったからです。良い政府ではなかったとしても、まだ南ベトナム政府は機能していました。実際に私たちとともに働いているベトナム海軍の士官たちが退却し、逃亡している姿を見られたら、それは反逆になってしまいます。信頼するベトナム海軍の士官が私にこう言いました。「これを実行するつもりだが、しかし、私の兵たちが家族を残して去ろうとしないのは分かるだろう」。私はベトナムにすでに6年いたので、それが分かっていました。しかし、自分の政府にはそのことを伝えていなかったのです。なぜかと言えば、彼らが同意しないと恐れていたからです。

29日の夜、サイゴンから飛ぶ最後のヘリコプターの1機を確保しました。そして、現在でも第7艦隊の旗艦になっているブルー・リッジに飛びました。私は身分証明書を持たず、パスポートもなく、財布もありませんでしたが、銃を持っていました。古いニュース映画で見たことがあるかもしれませんが、ヘリコプターが難民を降ろすと、他のヘリコプターが下りて来られるように前のヘリコプターは海に落とされてしまうのです。ひどい話でした。

暗い中で周りを見ると、提督の側近であることを示すストライプの先金具を付けた海軍大尉がいたので、こう言いました。「大尉、信じられないと思いますが、私は海軍兵学校の卒業生で、国防長官の特別ミッションを帯びています。この船の提督は、ウィットマイア提督だと思いますが、どうか提督に、3年間毎日アメフトの練習の際、海軍のロッカーに掲げられた提督の写真の下で私は着替えていましたと伝えてください」。提督はとても有名な海軍兵学校のアメフトの選手でした。

提督の補佐官はちょっとおかしいなというふうに私を見ましたが、私の話の中に真実のように思える何かがあると感じたようです。特に私は海軍士官の言葉を使っていましたから。彼は提督のところまで上がっていき、また下りてきて言いました。「一緒に来てください」。私は提督のところまで上がっていきました。ウィットマイア提督は、私よりずっと大きな体格の人で、私が何者かを説明したところ、提督は分かってくれました。しかし、国防長官の特別ミッションを帯びていても、私は身分証明書も何も持っていませんでした。そこで、私が何者で何をすべきか、ワシントンにメッセージを送り、国防長官に聞いて欲しいと提督に頼みました。

彼は「メッセージは送れない。私はこんな下にいて、彼はずっと上の人だ」。私は「提督、しなければなりません」と言いました。すると彼は統合参謀本部議長にメッセージを送り、統合参謀本部議長が国防長官のところに行き、20分で返事が戻って来ました。その答えは、「彼は自分で説明している通りの人物である。彼の言う通りにせよ」というものでした。

提督は困惑していました。彼は私を小さなボートに乗せて、別の米海軍の船に連れて行き、私ははしごを登って乗船し、士官食堂に行きました。そこに准将の艦長、副艦長などがいましたが、彼らはとても不満そうに見えました。艦長が「若いの」と呼びました。1975年当時の私は若かったのです。「真夜中に武装した見知らぬ民間人が私の艦に来るのには慣れていないんだ」と言いました。私は「艦長、真夜中に武装して乗艦するのに私は慣れていませんが、私たちはやらなくてはいけないことがあります」と言いました。そして彼は私が頼んだことをしてくれました。コンソン島というところに行き、ベトナム海軍の30隻を少し上回る艦艇に乗っている31000人の兵士とその家族たちと落ち合い、フィリピンまで8日間航海したのです。

フィリピンに着いたとき、当時のフィリピン政府はマルコス政権で、私たちを港に入れようとしませんでした。北ベトナムが怒って報復してくるのではないかと恐れていたからです。そこで私たちは船の国籍を変更しなくてはなりませんでした。つまり、ベトナム共和国の旗を下ろし、アメリカ海軍の旗を上げ、難民を下艦させ、グアムに送りました。そして航行して港に入り、無事に船を停泊させたのです。

ここでの教訓は何でしょうか。そこから学んだことは何でしょうか。日本ではあまりなじまないことかもしれませんが、人生を歩む中でしばしば事前に許可を得るよりも事後に許しを請うほうがずっと簡単なことが多いということです。アメリカ政府の許可を事前に求めていたなら、許可を出してくれたとは思いません。許可を求める前にやって既成事実を作ってしまい、「ごめんなさい」と言うと、彼らに選択肢はありません。つまり、事前に許可を得るよりも事後に許しを請うほうが簡単であり、それ以来、私はそれを私の人生の行動指針としてきました。

中東への赴任

私は国防総省に移りました。その後、イランに1年間行き、そこで役目を果たしました。ペルシャ人ほど自民族中心主義的で、ナショナリスティックで、自信を持った人たちは世界にいません。たくさんの場所に住んだことがありますが、イランは私がまったく楽しめなかった唯一の外国の場所でした。イラン人自身は文化的で、教育水準が高く、素敵で、良いユーモアのセンスを持っていますが、グループになると彼らは非常にナショナリスティックで、それは今日まで続いていると思います。

国防総省で勤務し始めた頃は、アメリカがテロリズムの対象になり始めたのと同じ時期でした。1983年4月にベイルートのアメリカ大使館の爆破で外交官たちが殺されました。同年10月には同じベイルートで海兵隊兵舎の爆破事件に向き合うことになりました。飛行機がハイジャックされるようになり、クルーズ船もハイジャックされるようになりました。1982年、83年、当時の私たちはよく分かっていませんでしたが、今日まで続くテロと向き合う長い道を歩み出していたのです。

中東はとても興味深い場所です。とても魅力的な人々と、とても興味深い文化と、そしてとても解決困難な問題が組み合わさっていて、引き込まれてしまいます。

私は、中東との個人的な関係の構築をとても楽しみました。中東のリーダーに何かを言うとすれば、別の人にもまったく同じことを言うようにしたほうが良いでしょう。彼らは互いに話し、あなたがどう振る舞うかで良くも悪くも評判を築くことになります。

ヨルダンのフセイン国王と非常に親しくなることができました。彼は卓越した人物だと思いました。しかし、最初の湾岸戦争で、イラクがクウェートに侵攻した時、ややよそよそしく振舞いながらもサダム・フセインの側に付いていた唯一の人物がヨルダンのフセイン国王でした。ハシミテ部族の歴史に関係する複雑な事情がありましたが、とにかく、サダム・フセインに話すことができる唯一の人物はフセイン国王でした。

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