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【講演録】ベトナム、中東、そして日本における私の旅路──未来の若者たちへのメッセージ

2018/10/08

戦争の最中にベトナムへ

私の世代の若い男たちは皆、軍に入ることになっていました。召集令というものがあり、大学に行くのであれば、入学前か卒業後に入隊することになっていました。私は卒業後に軍に行くつもりでいたのですが、海軍兵学校に入ることで計画を少し前倒しすることになりました。

そして、若い女性と婚約することにもなりました。先日(まだ1カ月も経っていませんが)、結婚50周年を祝った女性です。私たちは深く愛し合うようになり、私は自分のキャリアをどうしようかと熟考しました。

当初は海兵隊に行くことを考えていました。私の卒業記念アルバムを見ると、私がとても良い海兵隊士官になると他の人たちが確信していたことが分かります。しかし、当時はベトナム戦争の最中でした。私は密かに考え、婚約者と話しました。海兵隊に行ったら6カ月の訓練があり、その後、ベトナムで13カ月を過ごすことになり、結婚するまでに計19カ月かかる。海軍に行ってベトナム沖で船に乗れば、4カ月の訓練の後、7カ月をベトナム沖で過ごし、計11カ月で済むことになる。早く結婚できるから、こちらにしようということになりました。

こうしてベトナム沖で駆逐艦に乗ることになりました。私の駆逐艦は第2次世界大戦に参戦したものでした。6つの砲が付いており、トラブルに巻き込まれた陸軍と海兵隊を支援するためにベトナム沖でとても必要とされていました。私は船上で座り、見張りをし、船を操舵し、船を指導し、命令しました。時々トラブルに巻き込まれて北ベトナムと戦っている海兵隊や陸軍から無線が入り、私たちに援護射撃を求めてきました。

コーヒーカップを持って座り、命令を出し、援護射撃を行うと、海兵隊が良かったとか悪かったとか伝えてきて、もう一度射撃するという具合でした。私は少し変な感覚に陥りました。というのも、他のアメリカ人たちが戦いのまっただ中にいるのに、私は違うと感じたのです。それが私にとって教訓になりました。どういうことかというと、政治的にせよ、軍事的にせよ、社会的にせよ、文化的にせよ、できるだけいつも現実の動きの近くにいたい、ということです。

ベトナム戦争について無知だったというわけではありません。しかし、アメリカの海兵隊と陸軍の人たちがベトナムにいるということは、筋が通っているものとは思えませんでした。その気になればライフルを持ち歩けるはずの若いベトナム人がたくさんいたのです。アメリカ人が代わりに戦うのではなく、ベトナムとベトナム人を支援しにいくのだ、という考えを持つようになりました。それであればアドバイザーだろうと航空支援だろうと、ヘリコプター支援だろうと射撃支援だろうと、大いに納得のいくものでした。そこで妻に手紙を出し、ベトナム戦争にどうしても志願したいと伝え、実際にベトナムの田舎でベトナム部隊へのアドバイザーとなるべく志願しました。そして部隊配置から戻ってくると、私たちは結婚しました。先ほど言及した50年の結婚に加えて、上手くいったことが何かと言えば、2人の実子と6人の養子を得たことです。

しかし、私が前に述べたことを覚えていますか? 結婚前の19カ月を軍で過ごさなくてはいけないのを懸念していたという話です。私は結局のところ、ベトナムで6年間を過ごすことになりました。その間に結婚し、いわゆる保養休暇で時々戻りました。実に人生の皮肉というべきでしょう、19カ月の軍務を避けるために6年過ごすことになってしまったのです。

メコン・デルタでの勤務

最初のベトナム勤務はメコン・デルタで、そこは暑く、泥だらけの水田でした。私は新人としてベトナム人の基地に行き、奇襲チームのアドバイザーになろうとしていました。つまり、ベトナム人たちと奇襲に行き、そこで問題があればヘリコプターを要請し、航空支援を求め、射撃をしてもらうということです。彼らは私を楽しませることに決め、「この辺になじむために一回りしてみるかい」と聞いてきました。私は「もちろん。良い考えだ。有益だね」と答えました。ライフルを担ぎ、手榴弾を身につけ、水筒を持ち、ベトナム人たちと列を組んで出かけました。

私たちは小さな村を通り抜け、水田にさしかかりました。水田を歩くのは難儀でした。私は106キログラムもありましたから。ベトナム人は水田を歩くとき、ちょっとだけ沈みます。私が歩くと太ももの途中まで沈むのです。そして、水田で足を太ももの途中ぐらいまで入れると、沈むのは簡単ですが、抜け出すのは本当に大変です。

私に付いていたベトナム人に、「なぜあぜ道を歩かないんだ?」と聞きました。彼らは「いや、ダメだよ。罠が仕掛けてあるかもしれない」と言う。私は「分かった」と答えました。理にかなっていたので、丸1日こうした水田を歩き続けました。彼らは陽気に楽しげに歩いていましたが、私は惨めなものでした。人生であれほど懸命に動こうとしたことはありません。そのようなわけで、基地に戻るとライフルを置き、手榴弾と水筒を置き、居室の裏にある川にすぐに入って、水の中で座りこみました。クタクタに疲れていました。しかし、罠が仕掛けてあるという話はまったくのジョークでした。私をからかっていたのです。彼らは新入りがジョークが分かるかどうか試したかったのです。つまり、数日後に彼らが言うには、ユーモアのセンスを持たなくてはいけないということでした。

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