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【講演録】ベトナム、中東、そして日本における私の旅路──未来の若者たちへのメッセージ

2018/10/08

  • リチャード・L・アーミテージ

    元アメリカ国務副長官

慶應義塾大学の学生の皆さん、教員の皆さん、その他すべての皆さんに感謝したいと思います。この大学が素晴らしいと思うのは、創設者が1858年の日本に近代と社会発展をもたらそうとしただけではなく、それ以上のことを学生たちがここで学んでいるということです。

皆さんは歴史、憲法学、政府について、さらにたくさんのことについて学ぶことができます。ほとんどあらゆる分野において学んでいる学生がいます。首相や高官を輩出し、宇宙飛行士やオリンピック選手になる卒業生もいます。しかし、皆さんが学生としてここで学ぶのは、皆さんがそれをできるからではなく、皆さんがすべきだからです。お金で買えるものでもありません。どうやってこれから生きていくのか、あなた自身を上回る何者かになるにはどうしたら良いか、あなた自身を超える何かの一部になるためにはどうしたら良いか、とても現実的な方法で教えてもらっているのです。

海軍兵学校へ進学

今日の演題は、私自身についてですが、私が選んだものではありません。自分で選んだのだとしたら、それはかなりの思い上がりでしょう。これは大学が選んだ演題です。日米関係や外交政策について話せと言われれば、何時間でも話すことができます。皆さんが眠ってしまったとしても話し続けているでしょう。しかし、自分について話すのは難しい。自分についての逸話や物語を話して、キャリアを始めたばかりの皆さんに教訓を引き出さなくてはならないということは、もうそろそろ身を引こうと考えている自分からしてみると特に難しいのです。

私は、ボストンの警察官の息子です。ボストンで生まれましたが、父はすぐにジョージア州のディケーターという町に移りました。皆さんはそんな町のことは聞いたこともないでしょう。今はそれほどでもありませんが、当時は田舎町でした。ほとんど理想的と言って良い子供時代を過ごしました。6月から9月まで靴を履きませんでした。南部なので必要なかったのです。とても暖かく、素晴らしいところで、男の子がやるスポーツはすべてやりました。友達全員がそうでした。私たちの親のほとんどは、第2次世界大戦に従軍して帰国し、自分自身の生活を良くしようと忙しくしていました。

16歳だったある日のことです。弟と妹がいるのですが、私たち3人を父が呼び、こう言いました。「これは我が家のルールだ。お前たち3人は大学に行く」。それは至極当然のことに聞こえました。父が次の言葉を言うまでは。「そしてお前たち3人は、自分でそうする方法を見つけなくちゃいけない」。

我が家には生活するためのお金はありましたが、3人の子供たちを大学に行かせるだけの余分なお金はなかったのです。私は結局、米海軍兵学校へアメリカン・フットボールをしに行くことになりました。弟は、軍の奨学金で大学に行き、妹は、信じられないかもしれませんが、バトン・トワリングの奨学金で大学に行きました。私たち3人は、父が言ったことを成し遂げました。自分たちで大学に行く方法を見つけたのです。

海軍については何も知りませんでした。ジョージア州のディケーターに住んでいたのです。そこより海から遠いところなんてありません。海については何も知らなかったのです。私は本来、テネシー大学チャタヌーガ校と呼ばれる大学に行く計画でした。なぜならアメリカン・フットボールを4年間やるための奨学金をもらえたからです。

アメリカの大学にはスポーツをやるための奨学金はたくさんの種類があります。4年間もらえるものや、2年間やってさらに2年間延長されるものもあります。しかし、それはとてもリスクを伴うものなのです。最初の2年間でケガをしたり、成功できなかったりすれば退学になってしまいます。でも、海軍に生まれながらの愛着のようなものを持たず、鼻に海水を入れて育ったわけでもない私が、どうやって海軍兵学校に行くことになったのでしょう? それもまた幸運としか言いようがありません。

父が海軍兵学校があるアナポリスに出張で行き、お酒を飲もうとバーに入りました。そこで隣にいた人に「どんなお仕事をされているのですか?」と聞いたのです。するとその人は「海軍兵学校で1年生のアメフトのコーチとバスケットボールのコーチをしています」と答えました。父は、「そうなんですか。私の息子はアメフトとバスケットボールと野球をやっていて、砲丸投げもやります。フットボールチームのキャプテンなんです」「そうなんですか。上手なんでしょうね? 高校のコーチに息子さんのフットボールをしているフィルムを送るように言ってください」となったのです。コーチがそれを送ったところ、指名を受ける気があるか、という海軍兵学校からの手紙を受け取ることになりました。そんなことはまったく考えてもいませんでした。父は海軍兵学校のコーチとのやりとりを私に伝えていなかったのです。

どうしてこれがそんなに重要なのでしょう。それは、テネシー大学チャタヌーガ校と違って海軍兵学校は、いったん入学したらアメフトを続ける必要がなかったからです。そこは海軍ですから、トラブルなく過ごせば4年間いることができ、卒業したときには仕事があり、在学中に給料ももらえたのです。この状況に何の問題があるでしょう。海軍について何も知りませんでしたが、チャンスが来たらそれを摑むことに気づくだけのセンスはありました。しかし、「ある日、目が覚めたら海軍に対する深い愛を持っていた」と言ったら嘘をついていることになるでしょうね。

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