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【講演録】ベトナム、中東、そして日本における私の旅路──未来の若者たちへのメッセージ

2018/10/08

サダム・フセインへの手紙

フセイン国王と私の関係、そして、反テロリズムに取り組み、中東問題に関わる私について、他のアラブ人たちが皆、サダム・フセインに話していました。直接面識があったわけではないにせよ、彼が私を知っていたので、第41代ジョージ・ブッシュ大統領が、サダム・フセイン宛のメッセージをフセイン国王に渡すという特別ミッションを引き受けてくれないかと私に尋ねました。私は「やります。しかし、1つ問題があります」と答えました。「何かね」と大統領が尋ねたので、「2人の息子をイベントに連れて行くと約束してしまっているので、今夜遅くまでヨルダンに行くことはできません」と答えました。ブッシュ大統領も父親ですから、オーケーと言ってくれました。私は息子たちをイベントに連れて行ってから帰宅し、荷物をまとめて出発しました。

フセイン国王から許可を得てからヨルダンに到着し、すぐに彼の宮殿に行きました。彼と私はオフィスに座ってランチをともにし、ジョージ・ブッシュ大統領からサダム・フセインに宛てたメッセージを持っており、サダム・フセインが信頼する誰かに届けてもらいたいと伝えました。

フセイン国王がそれはどんなメッセージかと聞くので、詳しく説明せず、ごく簡単に内容を伝えました。すると彼は、ちょうど良い人物がいると言いました。彼は自分の首相を呼び、ランチに加わるように言い、アメリカ大統領からのメッセージを渡すべく、サダム・フセインに会うため、アンマンからバグダッドへ車で行くよう命じました。首相は私を見ました。彼は国王の命を受けてハッピーではないようでしたが、メッセージを携えて出かけました。

しかし、彼はアンマンからバグダッドまで普通の車列を使ったわけではありませんでした。イラクへ入るとすぐ、アメリカの飛行機がバグダッドまでの道の両側を定期的に機銃掃射しました。首相が確実にバグダッドに着き、このメッセージの伝達に真剣に取り組んで欲しかったのです。彼はバグダッドに着き、彼の説明によれば、いくつかの地下施設に連れて行かれ、最後にサダム・フセインに会うことができ、メッセージを伝えることができました。それは大量破壊兵器の使用についてのメッセージで、サダム・フセインが大量破壊兵器を展開すれば、彼自身と故郷のティクリートに何が起きるかを述べていました。非常に強いメッセージでした。

サダム・フセインは返事を寄越しました。それは大量破壊兵器は使用しないというものでした。バドラン首相は翌日イラクから戻ってきて、またもやフセイン国王とランチをともにすることになりました。国王は部屋に入って来るなり敵意を持った目で私を見て、乱暴なメッセージを仲介させたことに非常に怒っていました。国王はこう言いました。「座って食事をしたいかね」。私が「いいえ、陛下」と答えると、彼は出て行きました。しかし、私はサダム・フセインの答えを受け取っていたので、アメリカに戻ってブッシュ大統領に会いました。もちろん、サダム・フセインは1991年には大量破壊兵器を使いませんでした。

この教訓は何でしょう。この先、皆さんが築く関係は重要であり、その後も重要だということです。どんな仕事を辞めた後でも、長い間あなたが築いた関係故に、あなたは影響力を持ち、出来事に影響を与える能力を持つということです。それが、サダム・フセインとの逸話が示すことだと思います。

同じことがロシアのウラジミール・プーチン大統領にも当てはまります。1991年、プーチンのボスだったレニングラード市長に会いに行かなければならず、プーチンにも会いました。2001年9月11日の対米同時多発テロの後、第43代ジョージ・ブッシュ大統領からの要請でモスクワに行きました。ロシア上空を通過し、鉄道を利用し、アフガニスタンの古い地図を使わせてもらう許可をロシアから得るために訪問したのです。ロシア共和国ではまず軍人に会い、情報機関の人たちに会いましたが、彼らはきっぱりとノーだと言いました。しかし、プーチンはアメリカを助けると言ってくれました。

皆さんに証明することはできませんが、ここでも、人間関係がものを言ったのだと思います。10年前、プーチンは私との間で嫌な経験をしませんでした。それが続いていたのだと思います。今、アメリカとロシアとの関係は続いていませんが、それはそれで仕方のないことです。

9・11後の展開

2001年9月11日の対米同時多発テロの日、私は自分のオフィスにいました。パウエル国務長官はペルーにいて不在で、現在の国防次官補であるランドール・シュライバーが当時の私の補佐官で、彼は私を会議から引っ張り出すとこう言いました。「見なくちゃいけないものがある」。彼は私をオフィスに引き戻し、テレビを見ました。そこではもちろん、世界貿易センターが燃えていました。見ていたら、2機目の飛行機が突っ込みました。これは事故ではなく、テロだとすぐに分かりました。そしてすぐに走り出しました。

しかし、幸運にも、その翌日、パキスタンの情報機関であるISI(軍統合情報局)の長官、マフムード将軍という名の人物が私のオフィスを訪ねてきました。想像してください。3000人もの市民を失った翌日、彼は座り、私はコーヒーと紅茶を出し、彼は「歴史」を語りたがっているのです。私は彼に言いました。「将軍、申し訳ないが、歴史は今日始まりました」。彼は言いました。「違う、違う、あなたはなぜタリバンがアフガニスタンにいるのかを理解しなくてはならない」。私は「違う。私はそれを理解できます。ソビエトとの戦争の間に奴らと一緒に働いたんです。まさにその同じ奴らと今戦っている。もしパキスタンが正しいことを支持するというなら、私たちが求めることをやらなくてはいけない」と答えました。

マフムードISI長官はとても不満そうでしたが、私は要求リストを彼に渡しました。わざと「要求」という言葉を使いました。要望ではありません。空費する時間はなかったからです。当時の大統領のムシャラフ将軍に要求を渡すよう求めました。長官は翌日私のオフィスに戻ってきて、ムシャラフ大統領は7つの要求すべてに合意すると言いました。私は言いました。「申し訳ありませんが、もう1つあります。パキスタンに戻ったら、カンダハルに行き、(9月11日のテロを実行したアルカイダをかくまっている)タリバンの指導者ムラー・オマルに会い、彼と戦う理由はない、私たちが欲しいのはアルカイダだと伝えてください。私たちが求めているのは(アルカイダの)アラブ人であり、彼はアラブ人と訣別しなくてはならない。そうすれば、私たちはタリバン問題に介入しない」。長官はとても腹を立てましたが、求められるままに実行しました。そして、パキスタンに戻った後、私に電話してきました。ムラー・オマルは、部族の慣習や訪問者へのリスペクトなどという理由で拒否しているということでした。

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