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【講演録】国際ニュース報道と『時事新報』

2018/03/01

厳しい条件下での国際報道

日本が大北電信会社の海底電信線の独占を克服できたのは1943年、第2次世界大戦の最中です。この時点で、皮肉なことに大北電信の本社があったデンマークはナチスドイツに占領されていて、国として成立していませんでした。しかし、そこまで海底ケーブルの独占権は生きていたのです。

また、ロイターのニュース独占を打開したのは1933年です。当時、現在の共同通信社の前身にあたる新聞聯合社という通信社が、ロイターを出し抜いてAP通信社と直接契約しました。第2次世界大戦の直前ですが、これにより国際情報は大変革されました。東アジアにおけるイギリスの情報覇権が崩れてきたのです。第2次世界大戦は一種の情報戦でもありましたから、このことはそれを考える大きな前提です。この直接契約は、現在の共同通信とAPにとっても記念すべき出来事です。

このように、国際報道における独占状態が打開できたのは1930〜40年代になってからのことでした。福澤の存命中、『時事新報』が東京の有力新聞社にのし上がっていく時期、特にニュース報道において他の新聞社より圧倒的に有利な地位を保とうとしている時期においては、日本の国際報道は、明治初期に結んでしまったハードとソフトの両方の条約により、厳しく制限されていたのです。その制約の中で新聞社や個々の記者たちも努力していき、それにより国際報道、国際通信がようやく実現できていたのです。

ただ、それでもやはりイギリスの優位がありましたから、イギリス製のニュースが多く入ってきて、当時の日本人たちはどうしてもイギリス的な見方に立ったニュースを受け取ってしまい、それが世界だと考えてしまう偏りは生じていました。個々の言論人たちが偏りのある意見を持っていたかどうか、また福澤諭吉や『時事新報』の記者がどうだったかというより、これは1つの仕組みの問題で、そこを考えておく必要があるのではないかと思います。

遠回りなことからお話ししたので、わかりにくいところがあったかと思いますが、福澤諭吉や『時事新報』が活動している時代は、情報のハードやソフトが厳しい制約の下にあり、それによっていろいろな活動が規定されていました。そのようなことを考えながら『時事新報』のニュースを見ると、いろいろな発見もあるかと思います。拙い話で恐縮ですが、『時事新報』の活動についての理解の一助にでもなれば幸いです。ご清聴ありがとうございました。

(本稿は2018年1月10日に行われた第183回福澤先生誕生記念会講演をもとに構成したものである。なお、福澤著作の引用については『福澤諭吉著作集』を使用した)

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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