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【講演録】国際ニュース報道と『時事新報』

2018/03/01

初期の国際ニュース

当時の国際ニュースとは、どんな状態だったのでしょうか。『時事新報』は1882年創刊ですが、当時の紙面を見ると、3月17日ロンドン発のロイター電報が、4月1日に載っています。電報が載るのに半月もかかっている。他の新聞から見れば早いけれど、半月遅れのニュースです。なぜかというと、ロイター電報は高くて買えないので、横浜居留地の外国語新聞に載ったものから転載していたのです。では、その横浜居留地の外国語新聞は、ロイター電報を直接入手していたのか、というとそうではなく、上海や天津、あるいはシンガポールにあったイギリス系の新聞にロイター電報が載って、その新聞を船で運んできて、それを横浜の外国語新聞が転載していました。日本の新聞は、それをさらに日本語に翻訳しているわけです。日本は、イギリスの国際ニュースのチェーンの一番末端にいて、ようやく半月遅れで、遅いときは1カ月遅れぐらいで国際ニュースを報道できるという状態でした。特別に速く入手したニュースについては、当時のイギリス公使だったサー・パークスから聞いたとわざわざ書いています。そうしなければニュースを得られませんでした。これは非常困った問題です。

ただ、繰り返しお話ししているように、その中でも『時事新報』は国際報道に非常に力を入れ、いろいろなニュースを集めようとしていました。1893年1月、日清戦争直前の有力新聞紙面に載った国内外国電報を調べてみると、『時事新報』は226本で最多です。また、他の新聞に比べて早くから記者を海外に置き始めています。上海や北京、ソウルに記者を置いていましたが、ニュースを送る手段がないので郵送です。記者たちは、1カ月とか半月とか1週間ごとにニュースを書き、船に乗せ、郵便で届けていました。ですから、速報はありません。速報ではロイター電報にかなうところはなかったのです。

一例として、『時事新報』1897年3月3日付の紙面に、「27日発倫敦電報に依れば」とあります。これは2月27日に、ロイターのロンドン本社から発信された電報で、そのことをわざわざ注記しています。「上海3月1日午後2時36分松尾特派員発電3月2日午前3時17分着」とあり、27日のロンドン電報を3月1日、上海にいた『時事新報』の松尾記者が入手して、翌日の2日に発信して、3月2日に東京の『時事新報』に着いた。そんなことをわざわざニュースに書いているのです。今からすれば、27日のニュースが翌月の2日に着いたのは遅いとしか言いようがないですが、これが一番早いニュースでした。

上海にいた『時事新報』の記者は何をしていたか。他の日本の新聞社は船で上海の新聞が運ばれてくるのを待っていたけれど、『時事新報』はロンドンからのロイター電報を先に上海で入手して、それを東京に送った。これが一番早いわけです。涙ぐましい努力とさえ言えると思います。上海に派遣された記者の重要な仕事はロイターニュースを入手することにあったのです。それにしても自分たちは直接ロイターニュースを得ることができないのですから、なかなか苦しい状況です。

日本の他の新聞社や通信社も、何とかロイターと直接契約したいと考えました。本当は他の通信社と契約できればいいのですが、ロイター以外の通信社は東アジアに入ってきません。もちろん、フランスやドイツの記者は活動していますが、それは本国に送るだけで、そのニュースを日本へは提供してくれない。アメリカのAP通信はありましたが、当時のアメリカは国際政治の中ではイギリスよりも下の位置にあり、AP通信はロイターの事実上の子会社のような関係でした。ですから、日本はアメリカと国際関係はあるけれど、お互いにニュースのやりとりは直接にはできませんでした。

ついでにお話ししておくと、日本は何とか太平洋の海底ケーブルを引きたいと思っていましたが、結局できませんでした。太平洋の海底ケーブルは、アメリカがフィリピンを植民地にした際、アメリカ西海岸からハワイやいろいろな島々を中継してフィリピンまで引きました。日本はそれに便乗して、日本列島から小笠原まで電信線を引き、その電信線をアメリカ西海岸からのフィリピン線と接続したわけです。太平洋戦争が始まる時点でも、それがアメリカと日本の電報を直接やりとりをする唯一の海底ケーブルでした。ただ、第2次世界大戦が始まる時は無線がありましたので、海底ケーブル以外にも通信手段はありました。

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