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【講演録】国際ニュース報道と『時事新報』

2018/03/01

  • 有山 輝雄(ありやま てるお)

    元東京経済大学教授

福澤諭吉と「人民交通」

今日のような、慶應義塾にとって特別な日にお話をさせていただく機会をつくっていただき、ありがとうございます。非常に感激しています。最初に、今日のお話は歴史的な問題を扱うため、福澤先生について敬称抜きで呼ばせていただくことをお断りしておきます。

さて、今日お話しするのは、福澤諭吉の三大事業の1つとされる『時事新報』が、国際報道、国際ニュース、あるいは国際情報というところで、どのような役割を果たしていたのか。さらに、特に福澤存命の時期に日本の国際情報、国際ニュースがどのような環境にあったのかということです。それがわからないと、福澤、あるいは『時事新報』のジャーナリズム活動、国際報道活動がどのようなものであったのかが、十分に浮かんでこないのではないかと考えるからです。

『時事新報』は福澤の考えに基づき、他の新聞に比べ、国際報道、国際ニュースに力を入れていたことはよく知られています。しかし、それは必ずしも平坦な道ではなく、非常に厳しい状況にありました。

最初に、19世紀末の国際報道、国際情報がどういうものであったのかについてお話ししたいと思います。福澤諭吉は『民情一新』において、次のようなことを語っています。

西洋諸国の文明開化は徳教にも在らず文学にも在らず又理論にも在らざるなり。然ば則ち之を何処に求めて可ならん。余を以て之を見れば其人民交通の便に在りと云わざるを得ず。

これはなかなかの卓見です。「人民交通」という言葉は今あまり使われませんし、「人民」という言葉も何か政治的な意味を持って使われることが多いですが、ここで福澤が言っているのは、社会のコミュニケーション、人々の間のコミュニケーションこそが人間社会の開化をもたらすのだということです。ヨーロッパ諸国の文明開化は何によって実現できたのか。それには道徳もあるし、確かに理論もある。しかし、それだけではなく、コミュニケーション、つまり「人民交通」の問題だと言っているわけです。これは、当時の日本人がヨーロッパから何を学ぶべきかということに関する、優れた意見です。現在ではコミュニケーションというと、それこそインターネットやITのことなどがいろいろとよく議論されています。しかし、明治の初期、あるいは幕末にコミュニケーションの重要性を見抜いた人は本当にわずかしかいませんでした。

福澤は、西洋における人民の交通について、「蒸気船、蒸気車、電信、郵便、印刷の発明工夫を以てこの交通の路に長足の進歩を為したるは、恰も人間社会を顚覆するの一挙動と云うべし」と述べています。中でも当時重要だったのは電信です。電信は、今はもうほとんど使われませんが、画期的な技術でした。人間の歴史が始まって以来、人間のコミュニケーションのスピードは、人間の移動のスピードと同じでした。人間が文書を持っていかなければいけない。人間が馬に乗って届けなければいけない。人間の移動のスピード以上には上がりませんでした。もちろん、人間の移動を必要としないコミュニケーション手段として、例えばのろしを上げるなどは考えられましたが、安定的なコミュニケーション手段にはなり得ませんでした。しかし電信は、人間が移動せずに、高速に情報を伝えることができたのです。電信の発明は、人類の歴史の中でインターネット以上の意義を持っていたと指摘している人もいます。確かに、電信は画期的な通信技術でした。

福澤はそこを見抜いていたわけですが、これは簡単な問題ではありませんでした。電信の技術は確かに重要ですが、それと同時にもう1つ重要だったのは、電信線を通る情報をつくる社会組織です。これがなければ、電信はただの線でしかありません。この社会組織とは、今で言えばいわゆるマスメディア企業になるでしょうが、その時期であれば新聞社や通信社でした。経験を持ち、見識を持った人材を育て、その人間が情報を生産し、それを電信線で伝える。このようなハードとソフトの両面があって初めて情報、あるいは福澤のいうところの「人民交通」の革命が実現できるわけです。

海底電信線と日本

ヨーロッパで生まれた電信技術は、最初は地上線でヨーロッパ各地を結びました。しかし、地上を結ぶだけでは不十分で、海や川も渡らなければなりません。水があるところには、特別な電信線が必要です。そこで、ヨーロッパでは海底電信線が発明されました。現在われわれが使っているインターネットも、海底電信線=海底ケーブルでつながっていますが、この海底ケーブルは主にイギリスで開発されました。イギリスはこの海底ケーブルをどのように利用するかを考えました。まず、当然考えるのはアメリカと結ぶことです。つまり、大西洋を渡る海底電信線を引きたいと考えました。しかし、これはなかなか難しい技術です。海底といっても、海流が流れている。ケーブルをどこに下ろしたらいいかわからない。防水のための絶縁もしなければいけない。このようなことで、なかなかうまくいかず、何度も失敗しました。一度は成功したと思い、アメリカ大統領とイギリス女王が祝電を交わしましたが、すぐに切れてしまいました。

その時、アメリカの別の企業が、大西洋の海底ケーブルが難しいのであれば、別な方法で結べばいいだろうと考えました。つまり、方向を変える。イギリスから見て西に向かってケーブルを引こうと考えていたけれど、逆に、東に向かってみよう。シベリア大陸は地上線を引けますから、大陸を延々と横断していき、ベーリング海峡に出ればいい。ベーリング海峡は狭いので、そこは結べる。そしてアラスカに渡り、カナダへ行き、アメリカ大陸の電信線につなげる。このように考えました。これもなかなか大胆というか、柔軟な考え方だと思います。

ところが、これも難工事でした。しかも、気の毒なことに、その電信会社がシベリア大陸で電信線を一生懸命引いている間に、1866年に大西洋横断海底電線敷設が成功し、イギリスとアメリカは海底ケーブルで結ばれてしまいました。そこで、シベリア大陸を延々と工事していた電信線は無用の長物になりました。このようなことは日本には全く関係ないし、福澤にも『時事新報』にも全く関係ないことのように見えますが、実はこれが大きな意味を持ったのです。

イギリスはアメリカと海底ケーブルを結ぶと同時に、地中海を通ってエジプト、インドにまで海底ケーブルを引きました。言うまでもありませんが、これはイギリスの植民地支配と関係しています。エジプト、インド、そしてインド洋を渡りシンガポールに出て、香港へ行く。あるいはオーストラリア、ニュージーランドへ行く別の線を引く。これは延々たる長い海底電信です。これを実現したのは、イギリスのEastern Telegraph Company という会社です。日本では東方電信会社と呼んでいました。この会社の電信線がロンドンから出て、延々と香港、そして上海にまで達し、これで中国市場とイギリス工業が結びついたのです。

この時に、デンマークに本社を置いているThe Great Northern Telegraph Company という会社、日本では大北電信会社と訳していますが、この電信会社がイギリスの南回りの海底電信に対抗して新しい電信線を引こうと考えました。その時に、打ち捨てられていたシベリアの電信線を思い出したのです。途中までできているのだから、これを南に下ってウラジオストクまで引こう、そしてウラジオストクから日本海を通って上海を結べばいいと考えました。北回りと南回りの線で、ヨーロッパと中国市場を結びつけようと考えたのです。当時、朝鮮は鎖国していましたから入れない。ですからウラジオストクから日本海を通し、長崎に中継地を置き、上海に出ようと考えました。

そこで、幕末の徳川政権に海底電信の陸揚げを求めました。これが何を意味するのか、世界地図でどのような結果をもたらすのか、徳川幕府は全く理解できませんでしたが、もしかしたら便利かもしれないと考えました。しかしそのうち徳川幕府は倒れてしまい、この提案は明治政府に引き継がれます。明治政府も、これが世界経済戦略のなかの大きな構想であることは全く理解できませんでしたが、海底電信ができれば便利だと考え、長崎への陸揚げを認めました。その結果、日本は明治初期に世界的な情報網、情報ネットワークの中に組み込まれたのです。

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