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【講演録】国際ニュース報道と『時事新報』

2018/03/01

イギリスの情報覇権

この長崎からウラジオストクに向かう線と、長崎と上海を結ぶ線が、日本にとっては情報の命綱になりました。日本にはこれ以外に中国大陸、ヨーロッパと通信する手段がありませんでした。これはもちろん、後になって気がついたことです。当時、無線などは実用化の域に達していませんから、これだけが日本と世界を結ぶ唯一の回線になったのです。後に日本は、大北電信に独占権を与えてしまいました。これは日本にとって深刻な桎梏になりました。これも当時の日本政府は理解していませんでしたが、日本列島と中国大陸を結ぶ電信線は大北電信以外に認めないという約束をしてしまったのです。なぜか。日本は朝鮮半島に、 釜山と長崎を結ぶ海底電信線を引きたかったからです。

日本が朝鮮半島あるいは中国大陸に、外交・政治・経済で大きな力を及ぼすためには、海底電信線が必要でした。ところが日本には、その資金も、技術も、軍事力もありませんでした。しかし、海底電信線を引かなければどうしようもない。そこで大北電信に頼みましたが、大北電信は心やさしい会社ではありませんでした。日本に代わって釜山と長崎の間に海底電信を引いてあげる代わりに、独占権を要求しました。この独占権を日本は認めてしまいました。そして、後に日本が海底電信線を引く技術も、経済力も、軍事力も持つようになっても、それを自由に引くことはできないことになりました。いったん条約を結んでしまった以上、日本はどうしようもなく縛られてしまったのです。

情報にとって必要なものは、ハードの海底電信線と、もう1つ、その電信線を流れる情報です。この情報を担うのが、国際通信社と呼ばれていた組織です。今でも時々使われることがありますが、当時、“Follow the Cable”という言葉がありました。ケーブルを引けば、国際通信社が進出してくるということです。日本に進出してきたのはイギリスのロイター通信でした。ロイターはご承知のように、現在でも世界有数の通信社です。今は拠点がほとんどアメリカに移っていますが、当時はイギリスと一体の通信社でした。しかも通信社は、世界中からニュースを集め、それをいろいろなメディアに配信する役割ですから、国際的な経済力や政治力と一体のものです。日本にはそのような能力はありません。当時、いくら日本が人材を養成しても、ヨーロッパへ行って取材できるような人間はいませんでした。語学もできないし、ヨーロッパの政治・経済についての知識も十分にない。そんな人を派遣してもニュースなど集められるはずもありません。当時それができたのはイギリスとフランスとドイツの三国だけでした。

イギリスはロイター通信です。フランスには、当時はアヴァス通信(Agence Havas)がありました。今のAFP通信です。ドイツにはヴォルフ電報局(Wolffs Telegraphisches Bureau)という通信社がありました。世界の3つの強国がそれぞれ国際通信社を持っていて、情報を集め、配信していました。3社は、はじめ激しい競争をしていましたが、途中で競争をやめ、イギリスの通信社の領域、ドイツの通信社の領域、フランスの通信社の領域というように世界地図で線を引いてしまいました。そのことを日本は全く知りませんでしたが、日本はロイター通信社の独占領域になりました。インドから東は基本的にロイターが独占権を持ちました。

情報のハードの部分である海底電信は、大北電信のものです。大北電信はデンマークの会社ですが、そのバックにいたのはイギリスでした。もう1つの南回りは、まさにイギリス線です。そしてソフト、情報を生産しているのはロイター通信社です。つまり、日本は完全にイギリスの情報覇権の中に入ってしまったということです。それ以外に国際ニュースを集める手段もないし、発信する手段もありませんでした。日本の主張を世界に伝えるためにはロイター通信を通じて発信するしかないし、世界のことを知るにはロイター通信のニュースに頼るしかない状況でした。このような中で『時事新報』は発刊され、国際報道に力を入れ ようとしたわけです。ハードもソフトも、イギリスに頼っていくしかない状態だったのです。

これは世界的な政治・経済の問題ですが、新聞社からすると経営的な問題もありました。まず、電報料金が高い。大北電信が独占していますから、料金は大北電信の思うままに設定できます。また、ニュースもロイターが独占していて競争がありませんから、情報料も非常に高い。新聞社はハード、ソフトの両面で高い経済的負担を負わなければ、国際ニュースを集めることができませんでした。

このように経済的負担が大きいだけではなく、これらは基本的にイギリス製のニュースです。確かに、イギリスのことを知ることができるし、便利なのは間違いないけれど、当時、日本の国際関係から見て重要だった、朝鮮や清国のニュースは日本になかなか入ってきませんでした。

イギリスのいろいろなニュースは入ってきます。当時の新聞を見ればわかりますが、例えばやや後の時代ですがオックスフォードとケンブリッジのラグビーの試合でどちらが勝ったというニュースなどが入ってきます。これに関心を持っていた人もいたと思いますが、それ以外に日本にはもっと知るべき国際情報があったはずです。でも、そう思っても自分たちでニュースを集めることができない。このような中で、福澤の『時事新報』は悪戦苦闘しなければならなかったのです。これは1つの新聞社、1人の人物で解決できる問題ではありません。当時の国際関係の枠の中でもう決まってしまっていたことで、打開する必要はありま したが、当面それはなかなか難しいことでした。

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