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【講演録】小泉先生とスポーツ──体育会125年に際して

2017/11/01

庭球部長として

信三は大学卒業後も大学に残り、教員となって学問を続けます。信三が大学を卒業して教員となった年に、庭球部では軟式から硬式に転向するかどうかといった議論がなされました。当時の軟式テニス界において慶應は十分に強かったので、せっかく手に入れた技術と地位を捨て、新しい硬式にチャレンジすることは難しいことでした。信三も、丁度、高商戦に敗れた時だったので、「こんな意気地のない状態で硬球をしたってものにならぬ。少なくとも天下を平定してからだ」と反対し、硬式に踏み切ることは延期になりました。その後、慶應庭球部は高師・高商など対抗戦すべてに大勝し、ついに硬式採用を決めます。大正2(1913)年、日本テニス界として初めての硬式転向でした。

信三がイギリス・ドイツに留学したのは、こういった時期のことでした。信三は、ロンドンでテニスクラブに入り、硬式テニスを経験します。ウィンブルドンで見た硬式テニスの強烈なストロークは、人間業とは思えないくらいで大いに驚きました。そして硬式転向に反対した自分の考えが間違っていたことを悟ったのです。ウィンブルドン観戦記を庭球部時代の友人に書いて送り、そしてウィンブルドンの男子シングルスで4連覇したワイルディング選手の『庭球術』という本を、庭球部に送って激励しました。

信三は、学生が硬式転向に踏み切ったことを誇らしく思いました。この硬式転向により、対抗戦をやろうにも一時的に相手校がなくなりましたが、やがて他大学も数年遅れて続々と硬式を採用していくことになります。

信三は庭球部長を大正11(1922)年から昭和7(1932)年の塾長就任前年まで10年間務めます。34歳から44歳までの間、部長として、部員たちと多くの時間を共有しました。早慶戦に負けた時も、部長として学生をなだめる立場にありながら、30歳代の若い部長は部員に同感し共鳴しました。それゆえ一致団結したチームができていくことになりました。

「私が選手を奨励したその方法は簡単で、ただ常に彼等と共に在るという一事に過ぎなかった」と謙遜していますが、小泉部長時代、早稲田の黄金時代から「庭球王国慶應」と称されるまでに部を育てたのです。当初早慶戦で6連敗しましたが、連敗の歴史が連勝の歴史に遷(うつ)る転換期の部長でした。後の栄光の基礎を築いたこの臥薪嘗胆の早慶戦を、「光栄の6連敗」と言ったそうです。

ある年の夏休み、1日6時間の翻訳・執筆作業で多忙な信三は、机の時計が4時になると、執筆が行の途中であっても筆をおき、御殿山の自宅から当時コートのあった大森まで行きました。最後のスマッシュ練習を見て、選手からその日の様子を聞き、時に中国料理をご馳走しました。早慶戦の前日には、大森コート近くで合宿中の部員にポテトサラダを沢山作って差し入れました。

「光栄の6連敗」の最後の1敗となった大正15年秋の早慶戦は、早稲田の5‐3で決し、日没になってナンバー1の石井小一郎の試合が翌月曜日に残りました。5セットマッチで2セットダウン(0‐6、2‐6)、サードセットは3‐3だったのでかなりの劣勢。翌日三田で講義のあった信三は、田町から戸塚の早稲田コートまで車を走らせます。結局、この試合は2セットダウンから3セットを大逆転で連取しました。このナンバー1対決に勝った意味は大きく、それが翌年からの連勝の礎となったのです。3ゲームを取られて終わってしまったかもしれないのに、コートに駆けつけた小泉部長の気迫を感じます。この先生の行動に学生は発奮したのです。「庭球王国慶應」を作ったのはあの一戦でした。小泉部長は、その試合の持つ意味の大きさを知っていたのかもしれません。

ここで日本のテニスについて触れておきたいと思います。これまで世界トップテンにランクされた日本の男子選手は僅か6人のみ(熊谷一彌、清水善造、原田武一、佐藤次郎、山岸二郎、錦織圭)です。この6人のうち、高商の清水善造、早稲田の佐藤次郎と現在活躍している錦織の他、熊谷一彌、原田武一、山岸二郎の3選手は、いずれも塾体育会庭球部出身です。50%が塾関係者というのは慶應義塾が誇りにしてよい偉業と言えるのではないでしょうか。

小泉信三が卒業した年に庭球部に入部した熊谷は、慶應を卒業すると三菱合資会社銀行部に勤務し、ニューヨーク駐在員としてアメリカに拠点を移しました。1920(大正9)年のアントワープ五輪で、シングルス、ダブルスともに銀メダルを獲得して日本人初のオリンピックメダリストとなっています。しかし熊谷にとって、銀メダルは負けなのでした。著書『テニスを生涯の友として』には、「この夜(決勝の夜)ほど私は悲憤痛恨の涙にくれたことはない」「テニス生活中、一生の不覚と言っても過言ではない」と述べています。昨年のリオ・オリンピックで錦織圭選手が男子シングルスで銅メダルを獲った時、「日本人96年振りのメダル獲得です」と解説者が言いましたが、この96年前の選手が熊谷一彌だったわけです。

庭球部員は熊谷一彌というOBを持つことで大いなる刺激を受けました。昭和2年当時、庭球部の試合に出るメンバーはオールジャパンが6人揃っていました。この6選手を、熊谷はそれぞれシングルスを2セットずつ試合をして、12セット全て勝ったといいます。これほど驚異的に強いOBがいたということが、庭球部全体の練習の気概という意識とその実力を高めたことは間違いないと思います。慶應義塾の硬式転向が世界の熊谷を生み、世界に通用する日本チームを作り、庭球王国慶應を作ったと言えるでしょう。

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