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【講演録】小泉先生とスポーツ──体育会125年に際して

2017/11/01

福澤諭吉と小泉信三

福澤諭吉は、1835(天保5)年生まれ、小泉信三は1888(明治21)年生まれで、年の差は53歳です。信三の父信吉(のぶきち)は和歌山から江戸に出て福澤塾に学び、福澤に深く信頼されて塾長を任された人です。信吉は、1894(明治27)年12月8日に、45歳の若さで亡くなりました。福澤先生は、その前後に横浜桜木町にあった小泉宅をお見舞いに訪れています。信三が初めて福澤諭吉に会ったのは、その時の小泉宅だっただろうと推測されます。信三3、6歳の頃で、ほとんど記憶はありませんが、ただ、信吉が福澤諭吉を「先生」と呼んでいた記憶があったそうで、「この人は父が尊敬する人なのだ、ということを子どもの直観で自然に知った」と書いています。

信吉の死後、福澤先生は自分が住んでいる三田山上の邸内の一棟に小泉一家を住まわせました。この時、福澤先生は60歳、信三は7歳です。福澤先生は60歳にして、驚くほどの運動をしていました。毎朝薄暗いうちに起きて散歩をするのが日課で、さらに米搗き小屋を邸内に作って、毎朝「ウンウン」唸りながら米を搗きました。さらに居合もしました。それも刃渡り二尺四寸九分(約75cm)、重さ三一〇匁(もんめ)(約1.2kg、野球のバットよりもずっと重い)の大きな刀を、素早く抜いて、そして振るわけです。

信三は、こう書いています。

「私は先生がガアデンで得意の居合を抜くのを見たこともある。夕方、ガアデンに出ていると、先生が浴衣にたすきをかけ、尻を端折り、草履をはき、腰に一刀を横たえて現れた。先生は立ち止まり、姿勢をととのえた後、かけ声とともに刀を抜き、頭上にそれを振り舞わして、踏み込み、踏み込み、斬るような動作をした。そうして瞬間に刀を鞘に納める。私は刀身が白く空中に光るのを、驚いて見ていた。先生は何度も同じ動作をくり返した」(「わが住居」)

福澤先生の手記には、「居合数抜(かずぬき)千本。午前8時半少し過ぎより午後1時までに終り休息なし」とあります。この間、足を踏み出して一定の場所を行き来すると、距離にして二里半(約10km)になります。

信三は、福澤の学問と事業を受け継ぎ、心から福澤を慕い、福澤の作った慶應義塾を、命を賭して守っていきました。福澤諭吉は信三にとって生涯の目標でした。信三は福澤諭吉の本を読み、福澤諭吉の言葉を語り、少しでも先生に近付こうと熱心に学問に励んだのです。つまり小泉信三は深く福澤諭吉を意識して生きてきたのです。

「私が三田で、しかも福澤邸の近隣で成長したという事実は、私の一生を支配したと思う。やかましい、学問や思想のことは別としても、日常の生活態度の上の些末な点で、私は知らず識らず福澤先生、或いは福澤家の家庭の空気に化せられているであろう」(同前)

と書いています。これが小泉信三のスポーツの原風景であり、運動家としての福澤諭吉の姿が無意識のうちに刷り込まれたと考えられるかもしれません。「小泉信三がスポーツを愛したのは、福澤諭吉がスポーツを愛した人だったから」と思うのは、決して間違いではないと私は思っています。

小泉信三とテニス

福澤先生逝去の翌年、1902(明治35)年に、14歳になった信三は、慶應義塾の普通部2年に編入しました。家は、三田山上の福澤邸から1895(明治28)年に引っ越した山のふもとにありました。現在、正門から中等部に向かう消防署の隣にある木造の堀越整復院のところです。

この時の普通部は、三田の山上にありました。家を出て、裏木戸を開ければそこは構内。坂を駆け上がればすぐに学校。創部翌年の庭球部に信三は入部します。「日が暮れて最後にネットを片付けるのが私であり、冬の朝、霜除けの蓆を巻いてどけるのが私だということになった」(「わが住居」)。何しろ、テニスコートから崖を下れば自分の家だから、とにかく一日中テニスコートにいて練習をしました。「運動家としての出世は速い方であった。その代り練習は譬えようもなく猛烈なものであった」(「テニスと私」)そうです。

この頃のテニスは軟式テニスでした。先駆けは、東京高等師範学校(「高師」、後の東京教育大学、現在の筑波大学)で、創部は1886(明治19)年。慶應より15年も前です。東京高等商業学校(「高商」、後の東京商科大学、現在の一橋大学)がそれに続きました。両校が対抗戦を始めたのは、1898(明治31)年です。慶應が1901(明治34)年創部、早稲田が1903(明治36年)創部で続きます。創部当初は「高師」「高商」の強さは圧倒的で、慶應ごときが対抗戦を申し込んでもなかなか相手にしてもらえませんでした。

入部して2年、16歳の信三は、普通部生にして全塾の大将として活躍します。大学生よりも強くなったということです。1904(明治37)年、初めて「高商」に勝った時、信三は大将として大活躍しました。「明治37年は官学に対する私学スポオツの進出によって記憶されるべき年」(「私共の時代」)と書いているように、この年、慶應ははじめて高商を破り、早稲田も高師を破りました。

信三の練習は猛烈なる練習でした。信三は「タドン」というあだ名をつけられました。それは剛球を打とうとするその瞬間、目をギョロリと丸くすることが、炭団(たどん)の黒い球に似ていたからです。『時事新報』には、「小泉の後衛は間然するところなく、熱球の飛ぶこと銃丸よりも強く」「水も洩さぬ陣立」と記されています。

しかし、信三は17歳になり、普通部から大学予科へ進むと勉強に興味を覚えるようになります。さらに大学部に入ると、夢中になって講義を聞き、すっかり勉強の魅力にとりつかれてしまいました。その頃、慶應庭球部はチームとして強くなり、大将である信三の出番が来る前に勝ってしまうようになります。あの「高師」「高商」にも、信三が大学部に進んだ明治40年からの1年間で5度戦って一度も負けなかったのです。

「私が試合に出なくても、慶應は勝ってしまう」と思うと、学問の方が益々熱心になります。さらにもともと猛烈な練習で鍛えてきた技量なので、練習より勉強が熱心になると、やはりテニスの技術は低下してきます。20歳になった年、ようやく出番がまわってきた「高師」、「高商」戦に、信三は続けて負けてしまいます。

この後、主将としての敗北の責任と、自分の不成績を理由に、庭球部を引責退部しました。負けず嫌いで、とことんまで究めないと気が済まない、いい加減なことはできないという頑固な性格だからこそ、中途半端にテニスも勉強もできなかったのでしょう。「ハードファイター・グットルーザー(果敢なる闘士、潔き敗者)」という後年の言葉がありますが、まさにその実践でした。しかし、テニスで培った「気概」は、学問においても血となり肉となったのです。

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