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【講演録】小泉先生とスポーツ──体育会125年に際して

2017/11/01

六大学野球リーグ始球式での小泉信三(昭和40年4月10日、慶應義塾福澤研究センター蔵)
  • 神吉 創二(かんき そうじ)

    慶應義塾幼稚舎教諭

はじめに

ご紹介いただきました神吉創二です。体育会125年の節目に、このような機会をいただき光栄に思っております。

私は平成4年に塾を卒業し、今年卒業25年を迎えたわけですが、「何学部を出ました」というよりも、「庭球部を出ました」というところがあり、体育会に大変育てられたと思っています。4年間で早稲田に勝ったのはたったの1回でしたが、強い早稲田に勝つことを目標に、チーム一丸となって戦った青春の日々は、色褪せることはありません。

本日のテーマは「小泉先生とスポーツ」です。小泉信三先生といえば今から55年前の体育会創立70周年式典での記念講演があまりに有名ですが、歿後に生まれ、直接に小泉先生を知らない私にとって、あの「練習は不可能を可能にす」という名スピーチがなされた体育会の、今度は125年となったその記念式典に参会できたことは大変感慨深いものでした。

慶應義塾体育会創立125年

先日、4月23日の開校記念日に、日吉記念館にて「慶應義塾体育会創立125年記念式典」が行われましたが、慶應義塾体育会の始まりは明治25(1892)年のことです。これまで個々に活動していた剣術、柔術、野球、端艇の各部を集合統一し、新たに弓術、操練(兵式体操)、徒歩の各部を設けてこれを組織したもので、「全塾生の健全なる身体の発育」を目指して発足しました。

福澤諭吉先生は、「まず獣身を成して後に人心を養う」と考え、西洋流の体育思想を慶應義塾の教育に取り入れました。芝新銭座時代における義塾の規則書の中に、「午後晩食後は、木のぼり、玉遊等、ジムナスチックの法に従ひ種々の戯いたし、勉めて身体を運動すべし」と書かれています。構内にブランコやシーソー、鉄棒などの運動用具があり、学生と一緒に遠足にも行きました。三田に移転してからも、学生に運動を奨励し、種々の機械道具を構内に備えたり、専門家を雇って学生に運動を教えたりもしたわけです。武術や鍛錬といった、それまでの苦痛に耐えて技術を身につける訓練ではなく、教育の中にアスレチックスポーツの考えを取り入れた福澤先生の先見を感じます。

福澤先生は、体育会発足の翌年である明治26(1893)年3月23日付『時事新報』に、「体育の目的を忘るゝ勿(なか)れ」という記事を書いています。教育は知識だけでなく運動による身体の発達も大切であり、学生が体育を重んじる風潮があることは良いことではあるが、体育本来の目的を常に忘れないでいてほしいと述べています。身体の錬磨は病気の無い強い体を作り、精神もまた活発爽快となる。心身ともに健康であれば社会すべての困難を乗り越えて行動できるようになるが、これは「立身出世の一手段」に過ぎないのであって、体育を人生の目的としてしまうことは、目的と手段を混同してしまっていると言わざるを得ない、というのです。

肉体と精神との間には密接な関係があり、体育活動によって身体を健康にすることが、学業に励む際に必要であるから体育をするのであって、体育だけやって学業を怠り、そして頑強なる肉体にまかせて不養生や不品行を行うことは言語道断、ということです。だからこそ福澤先生は、体育活動を正課にはせず、課外活動という位置付けに留めたのでしょう。

「文武両道」という言葉がありますが、まさにこの福澤先生のお考えを継承したものといえるでしょう。「一体育会部員である前に、一塾生である」という考えです。爾来、慶應義塾の体育会は、数々のスポーツのパイオニアとして、日本のスポーツ界に重要な役割を果たしてきたのです。

125年記念式典の中で、「学生スポーツの未来を担う、43部メッセージ」という映像の上映がありました。各部の競技中の写真が次々にスクリーンに映し出され、主将たちがその部のスローガンをボードに書いて見せるのです。各部競技の色々なスローガンに共感・共鳴し、学生の必死の表情に感激し、幾度も涙が溢れました。その中で、庭球部だけが小泉信三先生の「練習ハ不可能ヲ可能ニス」とボードに書いたところも大変印象的でした。

小泉信三と学生

庭球部の部室玄関にある「庭球部」の表札は、小泉先生直筆の文中より採字したものです。その表札と、1番コート脇にある「練習ハ不可能ヲ可能ニス」の記念碑を毎日目にしていながら、小泉先生とはどのような方であったのか、恥ずかしながら学生時代には全く知りませんでした。「練習ハ不可能ヲ可能ニス」という言葉は、近すぎてむしろ遠い言葉だったように思います。

私にとって大きな契機になったのは、平成13(2001)年の庭球部創部100周年記念行事に携わり、記念誌『慶應庭球100年』で小泉先生の随筆を編集したことでした。この作業が私にとって小泉文献に触れる貴重な機会となったのです。そして創部100周年記念祝賀会では、今上天皇陛下と皇后陛下のご臨席を賜り、来賓接遇の係であった私は、会場の受付で間近に両陛下にご挨拶することができました。この感激はいまだに忘れることができません。一私立大学の一運動部の記念行事で、何故両陛下にご臨席いただけたのか。そこに間違いなく「小泉信三先生」の存在があったからだということを、改めてその時に体感したのです。この感激を契機に、私は小泉先生の著作を読み、そしてその文章に心惹かれていったのです。

その後、『仔馬』という幼稚舎の刊行物に、小泉先生の文体をかなり意識して文章を書いたところ、それまで全く面識のなかった山内慶太先生から連絡があって、一緒に小泉信三先生の随筆を編集しようということになりました。それは2004年に、スポーツにまつわるエッセイを集めた『練習は不可能を可能にす』(慶應義塾大学出版会)という本に結びつきました。続いて2008年には次女小泉妙さんとの2年にも及ぶ聞き書きを行って編集、『父小泉信三を語る』(慶應義塾大学出版会)という本として刊行しました。

2008年5月の「生誕120年記念小泉信三展」(三田キャンパス図書館旧館)では、山内先生、福澤研究センターの都倉武之先生と共に実行委員を務め、天皇皇后両陛下行幸啓をお迎えし、テニスに関係する展示ブースのご説明をしました。展示見学後、天皇皇后両陛下とお茶を飲みながら歓談するという栄誉を授かりました。両陛下が、「あの時(50年前のご成婚時)は本当に信三先生にお世話になった」「信三先生が助けてくださった」と、幾度も「信三先生」とおっしゃるのをうっとりと眺めながら、小泉信三という人は両陛下の先生だったのだと強く感じました。

そして2014年の夏、初めての著作『伝記小泉信三』(慶應義塾大学出版会)を上梓し、宮内庁長官経由で天皇陛下にも献本しました。この本は直接に小泉信三を知る世代からの反響が多く、その謦咳に接した先輩方が、大切な思い出を撫でるように愛しんで読んでくださいました。

小泉先生の亡くなられた後、昭和42年に、慶應義塾の学事振興、ならびにこれに関連する事業を行うことを目的に、「小泉信三記念慶應義塾学事振興基金」が設置され、「人物が優秀で、かつ健康であり、スポーツを通じて慶應義塾の名声を高らしめた体育会所属の団体、または個人を表彰する」ことを趣旨として、「小泉体育賞・小泉体育努力賞による表彰制度」が制定されました。全日本や国際試合での活躍などには小泉体育賞、それに準ずる好成績や関東学生優勝などには小泉体育努力賞が贈られるわけです。体育会の学生は、早稲田に勝とう、日本一になろうと、文武両道を本当によく頑張っていると思います。しかし、現役部員たちは小泉体育賞を目指しながら、その「小泉」が誰であるかを知らない。小泉純一郎氏の賞だと思っている学生がいると聞き、愕然としました。しかし、今の学生が小泉信三を知らないのは仕方ないことです。かくいう私も小泉信三歿後に生まれた世代で、学生時代に誰から教わったわけでもなかったのです。ですから、小泉信三という人が、慶應義塾に、日本にいらしたということを、次の世代に伝えるのは我々の責任と思います。

先月、欠席者を除く幼稚舎生全員844名に、「小泉信三」を知っているかとアンケートを取りました。知っている群には、「ではどういう人か」を書いてもらいました。1年生で知っていたのが1人(0.7%)、6年生で46人(32.0%)。全体で139人(16.5%)となりました。この数字が多いのか少ないのかはよく分かりません。

幼稚舎では、福澤先生についても教条的に授業として教えることはありませんが、様々な有形無形の福澤の遺した気風を伝える学校です。しかし、小泉先生については尚更に授業の教材になるわけでもなく、私の受け持つクラスは別として、小泉先生について学校生活で教わることはあり ません。私は機会ある度に若き塾生である幼稚舎生に伝えていけたらと思っています。

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