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【講演録】防衛大学校と慶應義塾

2017/02/01

慶應義塾との歴史的な紐帯

吉田茂、小泉信三、槇智雄という、防衛大学校の原点に立ち返り、その思想、歴史の変遷を見てきましたが、慶應義塾との歴史的な紐帯を感じざるをえません。それは一言で言えば福澤精神につながっていくものです。「一身独立して一国独立す」に原点があり、なぜ、幹部自衛官の方々で福澤が好きな人が多いか、というところにもつながります。小泉信三と槇智雄という2人の人物を通して、防大に福澤精神が注入されたのでした。

実は、私の恩師である石川忠雄は、防衛大学校の学校長を依頼されたことがあります。私が学部から大学院に行く1976年前後のことだと思います。石川先生が防大に移られるという噂を私も聞き、大学院に進学したので心配になったことがあります。当時、京都大学の猪木正道先生が防大の第3代学校長でしたが、猪木先生も就任時、京大で反対運動にあったそうです。その猪木先生が1番信頼していた学者の1人が、石川忠雄でありました。それは、ご子息の猪木武徳先生からも伺っています。

しかし、結局1977年、石川先生は塾長に就任され、防大校長をお断りになったという経緯があります。その後1990年代に入り、おそらく石川先生のところにまたご相談が行ったのかもしれません。塾の松本三郎先生が推挙されました。松本先生は、石川塾長時代の16年のうち12年を、学事担当理事として塾の発展に貢献されていました。湘南藤沢キャンパスの建設などは、松本先生のご尽力がなければ難しかったのではないかと思います。その松本先生が、第6代の防衛大学校長に着任され、1993年から2000年まで務められました。

松本先生の防大でのお仕事にも、やはり慶應精神が感じられます。特に、卒業生を大事にするということで、ホーム・カミング・デー、ホーム・ビジット・デーなど、卒業生に対する配慮を考えられたり、また民間の資金などをどう活用するかということも考えておられました。松本先生は塾の常任理事時代、石川塾長とともに、創立125年の募金を三田会等から集めるのに相当苦労されていたのを、私もずっと下から見ておりました。松本先生はその後、防衛大学校協力会という支援機構を、地元横須賀を中心に全国的につくることに奔走されて、そこに一定の資金を集めて、学校行事に対する各種の支援や、留学生に対する支援活動などを進めることに尽力されました。ある意味で、福澤以来の塾の精神を松本先生も継承されているなと感じます。

おそらく皆さんの中には、槇智雄という名前を聞いたこともない方もおられるのではないかと思います。また今日お話ししたような歴史もご存じないかもしれません。しかし、本日ご紹介したように、さまざまな人々の熱い思いが結晶した中で歴史はつくられていくのであり、そういう全体の構成の中に歴史というものはあるのだということが分かります。私は防衛大学校ですでに5年も勤務させていただいて、改めてその歴史を繙くなかで、人間的にも非常に成長させていただいていると思います。

「義塾」という言葉の本来の意味は、誰にでも教育を施す学塾ということです。つまり、お金を取らずに、いろいろな義捐金などによって平等に教育を施すところです。これは実際には私学では大変なことですが、私どもの防大は幸いに国立であり、また学生たちは若干の給料もいただいていますので、そういう意味では、いわば「防衛義塾」をつくっているということにもなると思います。

最初に申し上げたように、私自身、慶應時代にあまり深く考えなかったこと、教育とは何かということを、防大でいま改めて考えさせていただいているとともに、日本で唯一無二の学校をつくる事業に関与させていただいています。このようなことに完成形はありませんので、永遠の課題だと思いますが、今後も福澤以来の義塾の精神を原点に持ちながら、さらにチャレンジをしていきたいと思っています。そして、いずれまた、次の方にうまくバトンタッチをして防大精神、つまり槇イズムを繋いでいくつもりです。

本日は、このような貴重な機会をお与えくださいまして誠にありがとうございました。

(本稿は、平成28年12月13日に行われた第703回三田演説会をもとに構成したものである)

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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