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【講演録】防衛大学校と慶應義塾

2017/02/01

小泉信三と槇智雄

さて、この3人の関係をもう少し詳しく見てみたいと思います。槇先生の書かれたものによると、吉田茂は「今日は民主主義の時代である。多くは昔のままではいかぬ。士官教育また然りである」と語っていました。このような考えには、先ほど紹介した辰巳氏のアドバイスなどもあったのかもしれません。吉田茂は、首相時に2回、それ以外にも5回、計7回防大に来られました。

小泉先生は十数回来られています。そして、防大での講演集が、『任重く道遠し――防衛大学校における講話』(甲陽書房)という1冊の新書になっています。小泉先生は、時にはご自分から、防大に行きたいと槇先生にお願いしたようです。小泉先生はこのように言っています。「槇智雄さんは私の多年の親友であり、私が十年余り慶應義塾の塾長をしておりました時に、槇先生は(…)副塾長のような位置にいて終始私を助けられた無二の親友であります」(『任重く道遠し』93頁)。さらに、次のように、正直に言っておられます。「防衛大学校長の仕事は気の毒だ。(…)国防のごとき大切のことに世間は冷ややかである。軍閥の復活だといい、学生にも悪口雑言を浴びせる。さぞ気苦労の多いことであろう。心から心労ねぎらい申す」(槇との会話、槇智雄『防衛の務め』中央公論新社、2009年、303頁)。

では、槇先生は小泉先生に対してどのような感情を抱いていたのか。槇先生は、昔、小泉塾長が学生に対して語っていた有名な「塾長訓示」を思い起こし、自身がいつのまにかこの言葉に影響を受けていたことを吐露しています。

「一、心志を剛強にし容儀を端正にせよ。一、師友に対して礼あれ。一、教室の神聖と校庭の清浄を護れ、一、途(みち)に老幼婦女に遜(ゆず)れ」(『防衛の務め』296頁、一部修正)。

槇先生は防大で、例えば電車やバスに乗ったときは、座ってはいけない。特に制服を着ているときは、きちんと礼儀をわきまえること。そして、人に対して範を示しなさいということなどを、いろいろと学生に言っていたようです。それは振り返ってみたら、小泉塾長が言っていたことを実践したに過ぎないと、自ら漏らされています。

さらに、槇先生はこのように言っています。「塾長時代の小泉先生は、持するところ高く、気性も強く、理路整然としてことばの切れ味も鋭かった。人はこれを尊敬した。しかし晩年の先生については、英語のmellow という字を思わせる」(『防衛の務め』299頁)。mellow とは「円熟」という意味でしょうか。

槇智雄の防大での功績

では、防大で槇智雄先生は何をされたのか。槇先生のさまざまな論述を拝読していますと、非常に哲学的な表現が多い。これは特に、イギリスの政治哲学者アーネスト・バーカーから学んだことが大きかったのではないかと思います。と同時に、やはり福澤を相当読み込んでいるというのが分かりますし、また、小泉先生からも相当に影響を受けている。そして、イギリス時代のカレッジの生活からの影響、また、海軍大将であった井上成美などからの影響も感じられます。井上は軍内でリベラルな立場を取っていたことで知られ、戦後は非常に質素な生活を三浦半島で送っていました。槇先生は、井上のところにも何度か足を運ばれました。

槇先生は1952(昭和27)年から、1965(昭和40)年までの約13年にわたって学校長を務められました。60歳から73歳までです。いくつか先生の言葉を紹介したいと思います。

第1期生に対して語ったこととして、「第1に諸君の任務は偏することなき均衡のとれた人物を要求していること、第2に諸君の任務は民主制度に対して的確な理解を要求していること、これであります」(1953年第1期入校式式辞、『防衛の務め』21頁)。この2つのことを、新入生に対して伝えています。そして、防大生活における自由と規律に関しては、「規律なくして真の自由はなく、遵法精神または正義に服従する意思なくして真の民主制度は成立しません。(…)われわれは個性の発展を重視するとともに、大きな期待をこれにかけるものであります。(…)個性は野放しのものではなく、また個人の自由は放縦を意 味するものではありません。(…)正しいことを目指すことにおいてのみ個性の発展があり、正しき行いにおいてのみ自由があるのであります」(同書23頁)と語られています。

実は、防大の草創期、慶應の英文学者であった池田潔先生の『自由と規律』が必読書になっていました。それは私たちぐらいの世代の防大でも、やはり必読書だったようです。

「士官にして紳士」(同27頁)、「『高い身分には義務が伴う』Noblesse oblige」(同29頁)、「規律、自主、信頼」(同30頁)これらの言葉が学校のいたるところに刻み込まれていて、特に「ノブレス・オブリージュ」という言葉は槇先生の胸像にもあります。また、「われわれは大体3つの目標を考えております。1つは立派な社会の1人であるとともに有用な国民の一員であること、他の1つは立派な部隊幹部であること、さらに他の1つは立派な学識を持つ人たることであります」(同46頁)。このようにも語られています。

先ほどご紹介した学生隊、それから校友会については、「学生隊と校友会を、われわれは知能技術における教室、訓練における訓練場、または様々の所で行なう演習の場と同様に、幹部自衛官の人柄の養成場と考えているのであります」(同181頁)。これもいわば、自主自律の精神の涵養ということにつながります。

「この特異独特の教育体系は、理工学に重点をおきますが、これを専門教育または職業教育と考えることを極力避けて、むしろ全体を流れる教育上の主義は、一般またはリベラルの色彩の濃いものであるのです。専門教育を急ぐの余り、諸君の年齢期にあって修得せねばならぬものを失うことは、厳に慎まねばならぬとして参りました。人生への準備であり、諸君の一生のことを考えることが諸君のためでもあり、また自衛隊を利益するものであるとの信念によったものです」(同90頁)。つまり、専門教育に最初から走るのではなく、その人間的な基礎をどうつくるかに、すべての本質があるということです。人間性の土台づくりが、 自衛隊に対しても利するものであると考えられています。

防大で学んでいる学生たちは、いますぐに部隊のトップに立つわけではありません。本当の意味で、この国や国民を守る中核を担うようになるのは、だいたい2、30年後です。つまり、2、30年後に彼らがどのような状況の中で、何をしているのか、そのとき何が必要かを考えて、いまの教育をやらなければならないということです。

したがって、われわれは、槇先生の教えを繰り返し読み直している毎日です。槇先生が非常に好きな言葉に、「心に遅れをとっていないか、腕に力は抜けていないか」というものがあります。先生の本に何度も出てきます。これはつまり、智・徳・体の融合ということです。また先生はパスカルが非常にお好きでした。小泉先生はどちらかというと、孔子・論語からの引用が多いですね。しかし、槇先生は西洋思想からの引用が圧倒的に多い。槇先生に小泉先生が「論語を読むといいですよ」というお話もされたようですが、槇先生は主に西洋思想から取ってこられています。

「〔パスカルは〕『力の伴わぬ正義は無力であり、正義の伴わぬ力は抑圧である』と言った。防衛組織に正義は常に伴侶でなければならぬ。もしこれなくば、防衛の力は道義的に無力であるか、あるいは忌むべき暴力に堕するであろう」(同290頁)、「平和は進歩に欠くことのできない要因である。しかし、国の独立を見失うての平和は何の意味もない。また、国民の幸福とその理想の実現に国民の基本的自由は大切である。しかし、このために国民は国を守る責任から解放されるものではない」(同213頁)。

ここで思い出すのは、福澤先生の、「一身独立して一国独立す」、「独立の気力なき者は、国を思うこと深切ならず」という言葉です。槇先生は晩年、塾の職員だった昆野和七さんに、このように語っておられます。「塾(慶應義塾)ではやれなかったことを、もう1度、防衛大学校でやった」(昆野和七「槇智雄先生の追憶」『槇乃実 槇智雄先生追想集』昭和 47年)。

つまり、小泉塾長のもとで槇先生は日吉の建設などを通じて、おそらくカレッジをつくりたかった。大学の予科において人間としての一般教養を教え、きちんとした人間的な基礎をつくろうとした。その思いを込めて、おそらく、オックスフォードを心に描きながら日吉をつくられたと思いますが、それが結局、戦禍にまみれてしまった。思いが遂げられなかったという無念が、槇先生にはあったように思います。

そして、小泉元塾長はおそらくそれをご存じだったからこそ、ご自身が吉田茂から防衛大学校の学校長を打診されたとき、槇智雄先生を最初に推挙された。このような歴史があったのだということを、われわれは理解できるのです。

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