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【講演録】防衛大学校と慶應義塾

2017/02/01

リベラルアーツ・カレッジとしての防大

最初にも申し上げましたが、防大校長の立場にいると、リベラルアーツ・カレッジを運営しているような感覚を覚えます。カレッジと呼ばれるところは、いわゆる学生寮を必ず持っています。イギリスのカレッジでは、学生はみんな寮で厳格に暮らしています。つまり、学校生活で起こった問題を毎日仲間同士で解決しないといけない。それによって大人になっていくというのがカレッジです。ですから、このカレッジの文化を、本当の意味で持っている日本の大学は、ほとんどないと言っていいと思います。

防衛大学校では、三恩人と呼ばれている方々がおられます。一人は吉田茂、言うまでもなく、元首相です。そして、小泉信三元慶應義塾長、そして槇智雄先生です。防大の資料館にも、このお三方の展示をさせていただいています。そして、このうちのお二人が塾出身です。

吉田茂は、先ほど申し上げたように、陸・海・空の統合をはかりましたし、理系を重視しました。これは戦前に対する反省にもとづいていました。さらに、少なくとも初代からの学校長はあくまで民間人を登用しようとしました。私も、世界中の士官学校会議に出席しますが、校長はほとんど軍人です。私はシビリアン(文官)の学校長として会議に出席していますが、世界的にみて珍しいことだと思います。

以前、現財務相の麻生太郎大臣にお会いした折、ひとつのお話を伺いました。麻生大臣が、おじいさまの吉田茂から聞いたお話です。吉田が駐英大使のとき、辰巳栄一という駐英武官がその下にいました。その後、陸軍中将になる人ですが、この人は英米派で、アメリカ、イギリスとの戦いは絶対にノーと主張した方です。この辰巳が、戦後防大の創設についても吉田にいろいろと進言していたのを子供心に覚えている、と麻生大臣は話されていました。

吉田茂は、防大の校長を最初は小泉信三先生にご依頼しました。しかし、自分はいま東宮御教育参与という仕事をしているため、一番信頼できる槇智雄を推挙したいという話になったわけです。それまで吉田首相は槇智雄と面識がなかったのですが、紹介されてお会いして、その場で即断したと言われています。

1933(昭和8)年に小泉信三が慶應義塾長に就任し、1947年まで務められました。そのときの学務担当常任理事が槇智雄です。小泉塾長の任期すべてにわたって、常任理事として務められました。

当時は、慶應義塾には常任理事が財務担当と学務担当の2人しかおられなかったようです。槇智雄は、1914(大正3)年に塾の理財科を卒業し、オックスフォード大学に留学して哲学者アーネスト・バーカーのもとで民主主義の政治思想を学び、1920年にニュー・カレッジをファースト(首席)で卒業されました。日本人で初めての首席卒業です。翌21年に帰国されて、法学部の教員になられた。その後、法学部の教授になられ、そして国際連盟慶應支部(いまの慶應国際政経研究会)の会長を務められます。ちなみに、私も慶應国際政経研究会に所属しておりましたので、学部のときから、槇智雄という名前は記憶にありました。

槇智雄と慶應義塾

槇智雄は1925年、34歳で板倉卓造先生のあとを受けて2代目の体育会理事に就任され、体育会の合宿施設である山中山荘を主導的に建設し、同時に体育会の各施設を次々とつくっていった。その中で小泉先生が特に感激したのが、テニスコートでした。こうした体育会における槇の働きからか、小泉新塾長は槇を常任理事に任命しました。このとき槇先生は42歳でした。

槇智雄は塾の常任理事として、どのような仕事を担当されたのか。当時の最大の事業は、林毅陸塾長の時代から始まっていた、日吉キャンパスの建設です。日吉に大学の予科をつくる、さらに藤原工業大学との連携によって工学部を新設していくという計画がありました。これらを槇常任理事が担当しました。いまの日吉の第1校舎、第2校舎といった校舎を建設するとともに、陸上競技場をはじめ体育の施設も建設していきました。日吉の銀杏並木など造園に関しても、業者を回って槇先生が選定されたようです。

天現寺の幼稚舎の建設についても槇常任理事のお仕事だったようです。その槇先生が一番思いを寄せたのが、日吉寄宿舎の建設です。これは現存していますが、1937年に完成しました。当時、個室で床暖房、水洗トイレが付き、ガラス張りの風呂というものです。3つの棟をつくって、真ん中の棟の初代の舎監もされたそうです。やはり、イギリスのリベラルアーツ・カレッジへの思いが非常に強かったのではないかと感じます。槇先生は、「気品の泉源、智徳の模範」という言葉を、防大に来てからもしばしば使われていました。そういった礼節の重視を盛んに言われていました。

その後、1941(昭和16)年から太平洋戦争が始まります。学生と教職員の戦時動員が始まり、43年からは学徒動員で、学生たちがキャンパスから消えていきます。そして槇先生は予科(日吉)の主任になりますが、戦況が悪化し、1944年になると、いわゆる「陸にあがった海軍」の時代になります。

連合艦隊司令部が場所を考えた結果、有力候補に日吉キャンパスがあがり、日吉への移転を海軍が決定します。その交渉にあたったのも槇先生のようで、1944年の9月に移転しています。寄宿舎は司令部の作戦室や士官の宿舎になっていきました。その後、地下壕の建設が始まったのは皆さんご存じだと思います。

先日、防大のスタッフたちと一緒に、地下壕の見学をさせていただきました。やはり当時の米軍は相当丁寧に土地情報を得ていて、地下壕の周辺や出入り口あたりを中心に激しく爆撃していたようです。周辺の民家もだいぶ被害を受けています。慶應義塾は最大の戦禍を受けた大学の1つと言われていますが、日吉キャンパスも相当に破壊されました。小泉塾長、槇常任理事の落胆はいかばかりだったかと思います。

小泉塾長は戦争でご子息も亡くされ、そのあと空襲で顔に大やけどを負われました。1947年1月、槇先生は小泉塾長とともに、常任理事を退任されておられます。

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