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【特集:英語教育を考える】
井上 逸兵:これからの英語教育のために考えたいこと

2025/05/08

英語へのアプローチは人それぞれ

英語に限らず、言語の学び方には個人差がある。年齢よりも「認知スタイル」とも呼びうるような違いが、入り口を左右しているように感じる。文法や構造の理解から言語をとらえようとする学習者もいれば、コミュニケーションの楽しさを通じて習得しようとするタイプもいる。

小学校で英語教育が導入されて久しいが、正規の科目になって顕在化した現象は、著しく英語が苦手という生徒が少数ながら現れたことである。アルファベットを見るのもいやだというくらいの苦手さである。算数が苦手だったという生徒はいるとしても、かんたんな計算くらいはおそらくできるし、+や−の記号を見るのもいやだという生徒はいないのではなかろうか。本人には苦痛のタネなわけだが、研究者として見ると、極端に毛嫌いする生徒がいるのが現象としては興味深い。

まれなケースではあるが、英語がそういう超絶苦手だった生徒で、文法から入り、論理立てて教えるとできるようになってくるものがいる。入り口がちがえば、入っていけるのであろう。このことは、外国語学習における学習者の認知タイプが複数ある可能性を示唆している。

私自身、かつて簡単な調査を行ったことがあるが、これは中学生だからというような年齢の問題ではないようである。小学校の英語の時間に、歌をうたわされたのがいやだった、ゲームをさせられたのが苦痛でしかたがなかった、という過去の苦い経験を持っている人は、実はめずらしくない。小学生であろうと、中学生であろうと、あるいは中年、高齢者であろうと、語学の導入としての歌やゲームは苦手という人はいる。そして、そういう人は往々にして文法から入ることを好む。

コミュニケーションそのものを楽しめる人は、そこから入るのがよいだろう。文法や語彙から入るのがよい人もいる。小説など文学作品を読むのが好きという人もいる。メジャーリーグの中継を英語で理解したいというような動機があれば、言語学習の道筋が見える。

教育現場に目を移すならば、このようなアプローチの多様性を用意することが理想だ。必要なのは、カリキュラムの改革なのではなく、カリキュラムの多様化である。そのシステム上のめんどうな処理こそAIに期待したいところである。

AI時代こそ読む力

日本人は読み書きができるが……とは、日本人の英語力を非難する、定型の枕詞だが、実は、これは以前からあやしい。TOEFLなどの試験で比較するのは、必ずしも妥当ではないが、国別平均点を見ても、日本人のリーディング/ライティングのスコアは、他国と比べて高かったことはない(たしかにスピーキングも低い)。多くの日本人の「読み書きができる」というのは、文字を見て、かんたんなものであれば、意味がわかるというだけで、長い文章や内容の濃い文章になると、きちんとある程度のスピードで読める人はそう多くはない。

最近は生成AIに、文章を要約させる人が多くなっているが、ユーザー目線からのざっぱくな印象ではあるが、AIは、要約はあまり得意ではないように思う。事務文書や平易な文書、議事録などには使えるが、深い読み込みが必要な内容の濃い文章になると、現時点ではまだまだむずかしいようだ。AIがどのように要約しているのか知らないが、インパクトのある、よく読めば含蓄の多い一節でも、量的に短く、キーワードになるほど繰り返されたりしていないと、AIはどうもスルーしてしまうことがあるようだ。

少なくとも、このレベルのリーディングとしては、まだまだ人間の方が勝っている。入試問題を対象とした試みとしては、かつての「東ロボくんプロジェクト」(新井紀子氏ら国立情報学研究所の、AIに東京大学に合格させるだけの能力を身につけさせようとしたプロジェクト)や最近の生成AIでも、読解問題の得点向上は難題だ。

その意味で、文学部教員として考えると、そのレベルの読解力(何語にしろ)を高めることは、大学教育の使命である。そして、それこそがAIに負けない武器として、AIに過度に頼ることが懸念されるこれからの世代やその層に対して、圧倒的に差別化できる能力となるにちがいない。

私の専門である、言語学はまだしも、文学研究者や人文学には、世の中には、AIにあまりよろしくないイメージを抱く人たちもいるようだ。しかし、テクストの行間や背後から周辺まで、総合的に深掘りして読むことができる能力は、AI時代にこそ高い価値をもつようになるだろう。AI開発もいつかそのレベルに達するかもしれないが、文学研究者は、私とちがってだいたい奥ゆかしいので、そのような高度なリーディング能力をあまり言語化していないようだ。言語化していない技術だけに、おそらく当分AI研究者もなかなか手をつけるのがむずかしいのではないかと思う。逆に、そのあたりは文学研究者がAIの開発になんらかの貢献をする余地のある部分ではなかろうか。

『SHOGUN 将軍』の衝撃

生成AIの発達にともなって、自動翻訳のレベルも近年格段に向上している。言語学にとっても、翻訳は古くて新しいテーマだ。2024年で、私にとって衝撃的だったのは、この年放映・配信されたアメリカの日本時代劇ドラマシリーズの『SHOGUN 将軍』だった。大ヒットし、エミー賞18部門を始め、数多くの賞を受賞した。衝撃的なのはそのことではない。私にとって驚きだったのは、アメリカ人や世界の人たちの大半が、日本語のこのドラマを英語などの字幕で見ていたということだ。

よい比較の対象は2003年の『ラストサムライ』である。この作品も大ヒットしたが、大きな違いは、ちょんまげを結ったサムライたちがみな英語をしゃべっていたことである。

一般に、アメリカの人はあまり外国の映画は見ない、と言われていた。まして、字幕などで見ようなどという殊勝な人はあまりいないとかつてはされていた。コロナゆえのステイホーム需要がきっかけだったか、自宅で、配信で映画を見るというスタイルが定着してきたこともあったろう。ヒットの要因はさまざまかもしれない。

日本人と英語という観点から、この事象の意味することは、映画のみならず、今後、誰でも参入できるYouTube動画などでも、日本語コンテンツが、英語字幕をのせて世界コンテンツになる可能性を秘めているということだ。

おそらくその英語は、英米人などからみてこなれた英語ではない。英作文の授業なら、こんな日本語を直訳したような英語はダメだと言われるようなものかもしれない。しかし、もし英語圏のみならず世界が、コンテンツそのものを楽しむことを優先して、このような日本語英語を許容するようになるならば、英語はこれまでとは別次元のグローバル化を迎えることになる。かつて英語が世界に広がり、各地で固有の英語を生み出した「世界諸英語(World Englishes)」の時代とは異なる、AIが生み出した新しい英語の世界化だ。

そうなれば、求められるのはコンテンツ力である。そういう英語へのアプローチもあってよいと思う。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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